高津区久本・ターザンの木(スダジイ)

川崎市まちの樹50選・番外編

高津区久本のターザンの木(スダジイ)

昭和の子どもたちが遊んだターザンの木

川崎市まちの樹50選に選ばれた 江戸見桜 から直ぐ先に「ターザンの木」と呼ばれているスダジイの巨木があります。

そこに、地元の人々から「ターザンの木」と呼ばれているスダジイの巨木があります。

名前の由来を尋ねてみると、話は昭和30年代まで遡ります。

今のようにテレビゲームもパソコンもなく、子どもたちの遊びといえば、外へ出て友達と走り回るのが当たり前だった時代。

当時、子どもたちの間で人気を集めていたのが、ジャングルを舞台に活躍する「ターザン」でした。

このスダジイには、ちょうど子どもたちが遊べるような枝があり、ターザンになったつもりでぶら下がって遊んだといいます。

未就学児から小学生、時には中学生や高校生まで、年齢の違う子どもたちが集まり、放課後になると自然とこの木の周りに仲間が集まったそうです。

いつしか、「あの木で遊ぼう」「ターザンの木に集合!」と。

そんな呼び方が定着し、現在の名前になったと地元の方は話してくれました。

木が残した、昭和の記憶

「ターザンの木」という名前には、単なる遊び場の呼び名以上のものが込められています。

それは、一本の木を中心に子どもたちが集まり、遊び、笑い声を響かせていた昭和の風景です。

ちなみに、当時のターザン人気を支えたのが、アメリカの競泳金メダリストから俳優へ転身したジョニー・ワイズミュラーです。

彼が主演したターザン映画は1932年から1949年にかけて13作品が制作されるほどの人気シリーズでした。

そんな時代の空気が、この一本のスダジイに「ターザン」という名前を残したのかもしれません。

今では、蔦にぶら下がる子どもたちの姿を見ることは少なくなりましたが、それでも、長い年月を生きてきたスダジイは、変わらずこの場所に立っています。

川崎市まちの樹50選・登戸稲荷社「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号30

多摩区登戸・登戸稲荷社の楠(クスノキ)

精巧な漆喰彫刻

古くからこの地の人々に「登戸稲荷社」として親しまれ、五穀豊穣や商売繁盛、家内安全の神様として厚い信仰を集めてきました。

長い年月を経た社殿を眺めていると、まず目を引くのが、外壁を彩る精巧な漆喰彫刻です。

漆喰を盛り上げ、鏝(こて)を使って立体的に仕上げる「鏝絵(こてえ)」と呼ばれる技法で、龍や狐などが描かれています。江戸時代の左官職人たちが、建物の壁を単なる外壁ではなく、一つの作品へと仕立て上げたものです。

拝殿にも見どころは多く、木鼻に巻き付く迫力ある龍や、扉に施された獅子の透かし彫りなど、細部にまで職人の技が凝縮されています。

側面には三国志の武将・高覧、脇障子には八岐大蛇退治の神話や猿の姿なども刻まれ、それぞれの彫刻が物語を持っています。

かつての社殿は茅葺きでしたが、昭和28年に瓦葺きへと改められました。時代とともに姿を変えながらも、江戸時代の職人たちが残した技は、今も社殿の随所に息づいています。

多摩川の洪水や風雨、そして関東大震災など幾度もの災害をくぐり抜けてきた登戸稲荷社。

そこに残されているのは、ただ古い建物だけではありません。

漆喰の壁に刻まれた龍や狐、木々の間に佇む社殿。その一つひとつから、信仰を守ってきた地域の人々と、それに応えようと腕を振るった職人たちの思いが伝わってきます。

登戸稲荷社は、登戸の歴史を伝える神社であると同時に、江戸の職人文化を今に伝える貴重な場所でもあります。


川崎市まちの樹50選・登戸稲荷社「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号29

多摩区登戸・登戸稲荷社のケヤキ(欅)

川崎市多摩区登戸に鎮座する登戸稲荷社。古くからこの地の人々に「登戸稲荷社」として親しまれ、五穀豊穣や商売繁盛、家内安全の神様として厚い信仰を集めてきました。

御祭神は、穀物や食物を司る宇賀魂大神(うかのみたまのおおかみ)。

「宇迦魂大神」や「倉稲魂命」とも表記され、一般に稲荷神として知られる神様です。

その起源ははっきりしていませんが、戦国時代、武田家の家臣だった吉沢兵庫という武士が登戸の地に帰農し、邸内の鎮守として祀ったことが始まりと伝えられています。

その後、登戸村小名東耕地の鎮守として地域の人々に大切にされてきました。

しかし、この神社もまた、多摩川とともに歩んできた歴史があります。

安土桃山時代の天正18年(1590)には、多摩川の大洪水によって社殿が流失。その後、旧屋敷の敷地を譲り受けて再建されました。さらに江戸時代後期には嵐によって社殿が損傷し、再び修復・再建されています。

現在の社殿は嘉永6年(1853)に再建されたもの。


川崎市まちの樹50選・杉山神社「シイノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号5

高津区末長・杉山神社のシイノキ(椎の木)

末長の鎮守を見守る、大きなシイノキ

矢上川左岸の丘陵台地。その東側から入り込む谷戸の奥へ進んでいくと、斜面に沿って続く長い階段の参道が現れます。

その先に鎮座するのが、末長杉山神社です。

創建年代は明らかではありませんが、古くから末長村の鎮守として地域の人々に信仰されてきた神社。

現在の御祭神は五十猛命(いたけるのみこと)で、相殿には天照大御神が祀られています。

そして境内でひときわ目を引くのが、長い年月を生きてきた大きなシイノキです。

古くから末長を守ってきた鎮守

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、末長村の「杉山社」について記録が残されています。

そこには、創建年代は分からないものの、丘の上に社殿があり、松の木が茂る境内であったこと、そして村内三給の鎮守として祀られ、明鏡寺が別当として管理していたことが記されています。

当時から、この神社が地域の人々にとって大切な鎮守であったことがうかがえます。

また、かつて村内には伊勢宮もありましたが、現在はこちらに合祀されています。

一度は失われた、由緒ある社殿

長い歴史を持つ末長杉山神社ですが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。

昭和39年(1964年)4月5日未明、火災によって社殿が全焼。

古くから地域の人々に受け継がれてきた社殿は、惜しくも失われてしまいました。

しかし、氏子たちは神社を再びこの地に取り戻すことを決意します。

昭和46年(1971年)1月、地域の安寧と住民の和平を願い、神社再建の計画が立てられました。

氏子をはじめ地域の人々が力を合わせ奉納浄財を集め、同年6月11日に地鎮起工。

そして12月13日の上棟を経て、本殿や社務所、境内の整備などが進められました。

再建計画からわずか1年余りで、必要な施設が完成。

一度は失われた社殿が、地域の人々の力によって再び姿を取り戻したのです。

木々に包まれた、静かな境内

現在の境内はきれいに整備され、周囲の木々が豊かな緑をつくっています。

その中でも大きなシイノキは、訪れる人の目を引く存在です。

社殿が焼失するという大きな出来事を経験しながらも、神社は地域の人々の手によって再建され、今も末長の鎮守として受け継がれています。

大きなシイノキもまた、そんな地域の歴史を静かに見つめてきた一本なのかもしれません。

古くから末長の人々に寄り添い、火災による苦難を乗り越えて再び甦った末長杉山神社。

谷戸の奥へ続く石段を一歩ずつ上っていくと、木々の間から現れる境内。

そこには、神社そのものだけでなく、地域の人々が守り、受け継いできた「ふるさとの記憶」が残されています。v


川崎市まちの樹50選・小杉神社「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号4

中原区・小杉神社の欅(けやき)

小杉の歴史を紡ぐ、街の守護神

武蔵小杉の賑わいを見守る「小杉神社」。

その歴史を紐解くと、江戸時代にあった3つの神社にたどり着きます。

かつて小杉御殿町に鎮座していたのは、「杉山社」「神明社」、そして神明社に合祀されていた「総社権現」

地域の人々の心をひとつにする、大切な精神的支柱でした。

江戸以前からこの地を守る「杉山社」の御祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)で、武運長久や開運招福をもたらす頼もしい地域の守り神です。

一方「神明社」の主祭神は、光や慈愛、真実を象徴する太陽の神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、かつて多摩川の氾濫で社地を失った「総社権現」を包み込み、温かく地域を照らし続けてきました。

やがて時は流れ、戦後の1951年(昭和26年)。

神明社が杉山社へと合祀され、現在の「小杉神社」となりました。

形を変えながらも、今なお地域の祭礼や賑わいを支える拠地として愛され続けています。

川崎フロンターレのホームスタジアム(Uvanceとどろきスタジアム by Fujitsu)に隣接しているので、必勝祈願に訪れるサポーターも多いようです。


川崎市まちの樹50選・二子神社ムクノキ(椋)

川崎市まちの樹50選・指定番号8

高津区二子・二子神社の椋(ムクノキ)

川崎市高津区二子に鎮座する二子神社

かつては「神明社」と呼ばれていましたが、明治時代に大六天と稲荷を合祀し、地名にちなみ現在の社名となりました。

その起源は、江戸時代よりさらに遡ります。


地元に伝わる話によれば、戦国時代に武田家の旧臣・小山田兵部がこの地に住み、天照大御神を祀ったことが始まりとされています。

1641年(寛永18年)には、天照皇大神を守護神として祠が建立されたと伝えられています。

江戸時代になると、二子は多摩川の渡船場を擁する宿場町として発展。

二子神社はその鎮守として、旅人や商人など、町を行き交う多くの人々の信仰を集めてきました。

境内には、二子新地の歴史を感じさせる「出世稲荷」も祀られています。

1930年(昭和5年)、当時この地域で栄えていた「二子三業組合」によって伏見稲荷から勧請されたものです。

「三業」とは、芸妓置屋・待合・料亭の三業種を指す言葉。

二子新地では昭和30年代頃まで花街が盛んで、神社周辺にもその華やかな文化が息づいていました。

境内に建つ岡本かの子の文学碑

二子村の旧家・大貫家に生まれ、多摩川をこよなく愛した歌人・作家、岡本かの子。

そのゆかりの地であることから、多摩川を望むこの場所に文学碑が建てられました。

碑の中心となる大型の抽象彫刻「誇り」は、かの子の息子である芸術家・岡本太郎の作品。

築山を思わせる台座は建築家・丹下健三が設計し、1962年(昭和37年)に完成しました。

碑には、かの子の歌「としとしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」が刻まれているほか、亀井勝一郎が岡本かの子について記した文章を、川端康成の書で刻んだ碑も残されています。

宿場町として人々が行き交った二子の歴史と、花街の華やかな記憶。

そして、多摩川を愛した岡本かの子と、その息子・岡本太郎へとつながる芸術の物語。

二子神社は、静かな境内の中に、二子の町が歩んできた歴史と、多摩川沿いに育まれた文化をそっと刻んでいる神社です。


川崎市まちの樹50選・影向寺「サルスベリ」

川崎市まちの樹50選・指定番号15

宮前区野川・影向寺のサルスベリ(百日紅)

深大寺とつながる、影向寺の中世

近年に行われた発掘調査で、影向寺の歴史は7世紀後半まで遡ることが判明しました。

そんな長い歴史を持つ影向寺ですが、古代から中世にかけての詳しい歩みは、残された資料が少なく、今も謎に包まれています。

重要な存在となるのが、現在の東京都調布市にある深大寺です。

平安時代には天台宗の寺院となった影向寺は、中世になると深大寺との関係を深めていったと考えられています。

当時、地方の寺院にとって大きな課題だったのが、寺院を支える有力な庇護者を失うことでした。

影向寺も例外ではなく、次第に寺院の建物や伽藍を維持することが難しくなっていったとみられています。

そこで深大寺とのつながりを生かし、寺院の再興に必要な資金や協力を募る「勧進」を行ったと考えられています。

その成果の一つとされるのが、15世紀ごろに建てられた新しい本堂です。

それまでの金堂を廃し、密教本堂の形式を取り入れた、より小規模な本堂へと姿を変えました。

やがて江戸時代になると、元禄7年(1694年)に現在の薬師堂が再建されます。

つまり影向寺の歴史をたどると、古代の大寺院としての姿から、中世の寺院再興、そして江戸時代の「稲毛薬師」へ――。

その背景には、地域の人々の信仰だけでなく、深大寺との長い結びつきもあったのです。

現在、深大寺と影向寺はそれぞれ別の場所に静かに佇んでいます。

しかし、その二つの寺を結ぶ歴史を知ってから訪れてみると、武蔵国の各地に広がっていった仏教文化と、寺院同士のつながりが、少し違った景色として見えてくるかもしれません。


川崎市まちの樹50選・影向寺イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号14

宮前区野川・影向寺のイチョウ(公孫樹)

時を超えて、古代の記憶に出会う

住宅街を抜け、静かな境内へ足を踏み入れると、そこには現代の街並みとは少し違う、ゆったりとした時間が流れています。

ここに佇むのが、天台宗の古刹、**影向寺(ようごうじ)**です。

「稲毛薬師」とも呼ばれるこの寺の本尊は薬師如来。

「影向」という言葉には、神仏がこの世に姿を現すという意味があります。

その歴史は、なんと1300年以上。

かつては奈良時代の天平12年(740年)、聖武天皇の勅願によって行基が建立したと伝えられていました。

ところが、時代を越えて眠っていた歴史が、発掘調査によって少しずつ明らかになります。

境内から出土した古い瓦などを手がかりに調査が進められた結果、影向寺の創建はさらに古い7世紀後半まで遡ることが判明。

まだ「川崎」という地名もなく、武蔵国と呼ばれていた古代の時代から、この場所には人々の祈りの場があったのです。

古代の姿を伝える「影向石」

境内でひときわ目を引くのが、「影向石」と呼ばれる大きな石。

これは、かつて境内に建っていた三重塔の中心を支えた礎石と考えられています。

「影向石」には、くぼみに水がたまる場所があり、その水で目を洗うと眼病が治るという信仰も生まれました。

その評判は遠くまで伝わり、江戸の名所を紹介した『江戸名所図会』にも「稲毛薬師堂」として登場しています。

江戸の人々も訪れた「稲毛薬師」

時代が江戸へ移ると、影向寺は「稲毛薬師」として広く知られるようになります。

現在残る薬師堂は、元禄7年(1694年)に再建されたもの。

幾度もの修理を受けながらも、その姿を今に伝えています。

街の中に残る、もうひとつの川崎

川崎というと、近代的な街並みや工業地帯を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、少し足を延ばせば、そこには古代から続く歴史が静かに息づいています。

都会の喧騒から少し離れて、静かな境内を歩く。

川崎を訪れたなら、ぜひ一度、影向寺で「時の流れ」を感じてみてはいかがでしょうか。


川崎市まちの樹50選・天満天神社「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号3

幸区・天満天神社の楠(クスノキ)

地名の発祥となった神社

古くからこの地域で市場が立っていたことから「古市場」という地名の発祥となった神社と伝えられ、地域に根差したお社として親しまれています。

天満天神社は、学問の神様である菅原道真を御祭神とする歴史ある神社です。

御祭神: 菅原道真(すがわらみちざね)


川崎市まちの樹50選・細山神明社「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号45

麻生区細山・細山神明社の楠(クスノキ)


多摩丘陵の細長い山々が連なる土地。丘陵の坂に佇む、細山神明社

その地形から「細山(ほそやま)」と呼ばれるようになったこの地域に、静かに鎮座する神社があります。

天照大神を祀る細山神明社です。

境内の鳥居脇には、樹齢数百年ともいわれる大きなクスノキが悠然と立っています。

長い年月を重ねた幹を眺めていると、この土地の歴史をずっと見守ってきたような風格を感じさせます。

神明社は、言い伝えによれば鎌倉時代に祀り始められたとされ、明治6年(1873年)には細山村の村社となりました。

さらに明治44年には、細山村や金程村の周辺にあった稲荷社、杉山社、秋葉社、春日社などが合祀され、地域の信仰を集める神社となっていきました。

「逆さ大門」に秘められた不思議な伝説

全国でも珍しい「逆さ大門」

細山神明社を訪れたなら、ぜひ注目したいのが、神社へ向かう参道の不思議な造りです。

一般的な神社では、鳥居をくぐると坂や石段を上り、社殿へ向かいます。

ところが細山神明社は、その反対。

鳥居が丘の上にあり、そこから坂を下った先に社殿があるのです。

この珍しい造りから、細山神明社は関東に三社あるといわれる「逆さ大門(さかさだいもん)」の神社の一つとして知られています。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも、この参道について「ここより社前までは下り坂なる故、土人これを逆大門とよぶ」と記されています。

なぜ「逆さ」になったのか

この不思議な参道には、さらに興味深い伝説が残されています。

かつて神明社の社殿は東向きに建てられていたそうです。

ところがある夜、社殿が一夜にして西向きに変わってしまいました。

村人たちは不思議に思い、元の東向きへ戻しました。

しかし翌朝になると、また西向きに。

そんなことが三度も続いたある夜、村の名主の夢枕に神様が現れ、

「村を守るためには、西の伊勢の方向へ向けよ。大門が逆になってもよい」と告げたといいます。

それ以来、社殿は西を向くことになり、結果として鳥居が丘の上、社殿が坂の下に位置する現在の「逆さ大門」になった――。

そんな神秘的な物語が、今もこの地に伝えられています。

絵馬に残る、庶民の願い

細山神明社には、もう一つ、興味深い信仰があります。

古くから、吹き出物や「下の病気」に悩む人々の信仰を集めてきたといわれています。

人々は願いを込めて絵馬を奉納し、藁づとに入れた蛤(はまぐり)を神前に供えました。

現在も拝殿には、近郷から奉納された絵馬が数多く残されています。

そこに描かれているのは、神に祈る女性の姿や蛤。

華やかな歴史の裏側にある、病気から逃れたい、家族が健やかに暮らしてほしい――。

そんな昔の人々の切実な願いが、絵馬を通して今にも伝わってくるようです。

大クスノキが見守る、細山の歴史

境内の入口に立つ、樹齢数百年ともいわれるクスノキ。

「逆さ大門」の参道を行き交う人々を見つめながら、この木もまた、細山の長い歴史を静かに刻んできたのでしょう。

丘陵の坂道に残る独特の参道。
西を向いた社殿。
そして、昔の人々の願いを伝える絵馬。

細山神明社は、ただ古いだけの神社ではありません。

地形と信仰、伝説と人々の暮らしが重なり合い、今も昔の面影を残している場所。

坂を下りながら社殿へ向かう「逆さ大門」を歩けば、いつもの神社とは少し違う、不思議な感覚に出会えるかもしれません。