川崎市まちの樹50選・大陸天公園イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号10

高津区二子・大陸天公園のイチョウ(公孫樹)

神社の記憶を残す、二子の公園

川崎市高津区の住宅街に佇む大陸天公園。

砂場やブランコ、すべり台、鉄棒などの遊具がそろい、近隣の子どもたちの遊び場として親しまれている、比較的ゆったりとした公園です。

現在は公園となっていますが、この場所にはかつて神社がありました。

大正時代に二子神社へ合祀されたため神社そのものは姿を消しましたが、園内には神社旧蹟が残され、かつてここが信仰の場であったことを今に伝えています。

園内でひときわ目を引くのが、大きなイチョウの木。

枝葉を大きく広げ、夏には心地よい木陰をつくってくれます。

子どもたちが遊ぶ傍らで、長い年月を生きてきた木が静かに公園を見守っています。

この公園が整備されたのは昭和後期。

第二次ベビーブームによる子どもの増加を背景に、住宅地の中にも子どもたちが安心して遊べる場所が求められました。

今では何気ない街の公園のひとつですが、そこにはかつての神社の記憶と、昭和の子育て世代を支えた地域の歴史が重なっています。

遊具で遊ぶ子どもたち、大きなイチョウの木の木陰、そしてひっそりと残る神社旧蹟。

大陸天公園は、日々の暮らしの中に歴史がそっと息づく、二子らしい小さな憩いの場所です。


川崎市まちの樹50選・橘樹神社イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号11

高津区子母口・橘樹神社のイチョウ(公孫樹)

古代の記憶を今に伝える、子母口の鎮守

川崎市高津区子母口の高台に鎮座する橘樹神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、その妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)を祀る、地域の古い鎮守です。

かつては「立花社」とも呼ばれ、古くから子母口の人々に信仰されてきました。

その歴史を語るうえで欠かせないのが、日本武尊と弟橘媛にまつわる伝説です。

東征の途中、海が荒れたため、弟橘媛は日本武尊を救うため自ら海に身を投じたと伝えられています。

やがて媛の御衣や御冠などがこの地に漂着したという社伝から、ここに祀られるようになったとされています。

近くにある富士見台古墳にも、弟橘媛の「御陵」であるという伝承が残されています。

ただし、この古墳は実際には6世紀頃に築かれたものと考えられ、当時この地域を治めていた有力者の墓とする説もあります。

弟橘媛の御陵とする説を裏付ける確かな史料はなく、古代の歴史と伝説が重なり合う場所として、今も静かに残されています。

さらに興味深いのが、この一帯がかつて橘樹郡の中心地だったと考えられていることです。

神社の近隣には古代の郡役所にあたる「橘樹郡衙」が置かれていたと推定され、橘樹郡の総社であった可能性も指摘されています。

神社の周辺には、縄文時代の「子母口貝塚」、白鳳期の創建と伝わる「影向寺」、その塔頭のひとつだった「能満寺」など、古代から続く歴史の舞台が点在しています。

境内に残る、二つの歴史の碑

橘樹神社の境内には、日本武尊と弟橘媛の伝説を今に伝える、二つの石碑が静かに佇んでいます。

ひとつは、「日本武の松」の歌碑。


高さ約174cm、幅約90cm、厚さ34cmの堂々とした石碑で、表面には幕末から明治にかけて活躍した政治家・山岡鉄太郎(鉄舟)の筆による「日本武の松」の文字が刻まれています。

その左側には、押小路實潔による「社頭松」の一首が刻まれています。

碑の裏側にも、当時の人々の記憶が残されています。中央には「氏子中」の文字が刻まれ、その左右には神官であり神道本局大講義を務めた森義徳と、伊藤壽三郎房壽の和歌が記されています。

伊藤壽三郎房壽は、かつて橘樹神社にあった狛犬の建立にも関わった人物。そのことから、この歌碑も明治10年代前後に建立されたものではないかと考えられています。

もうひとつが、「橘比売命神廟」碑。


弟橘媛を祀る橘樹神社ならではの石碑で、日本武尊と弟橘媛にまつわる古い伝承が、この地で大切に受け継がれてきたことを物語っています。

川崎市まちの樹50選・下有馬不動尊「ヤブツバキ」

下有馬不動尊【藪椿】

川崎市まちの樹50選・指定番号24

宮前区有馬・下有馬不動尊の藪椿(ヤブツバキ)

平を見守る、一本の欅

宮前区有馬3丁目にある下有馬不動尊。

創建年代の詳細は分かっていませんが、不動堂の下には滝と滝つぼがあり、かつては冷水を浴びて心身を清める「水垢離」の場として使われていたと伝えられています。

また、鎌倉時代には、背後の森に現在の中原区へ移転した龍宿山金剛院西明寺があったとも伝わります。

静かな住宅地の一角に残る滝と不動尊。

その風景からは、この場所が古くから信仰と深く結びついてきたことが感じられます。


川崎市まちの樹50選・王禅寺「カキノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号42

麻生区王禅寺・王禅寺の柿の木(カキノキ)

川崎市麻生区の「柿生」という地名の由来は、この地域で古くから栽培されてきた禅寺丸柿(ぜんじまるがき)が深く関わっています。

その発見については諸説ありますが、建保2年(1214年)、王禅寺の山中で発見されたのが始まりとされています。

それから約150年後の応安3年(1370年)。

焼失した王禅寺の再建にあたり、朝廷の命を受けて訪れた等海上人が、用材を求めて寺の裏山へ入ったところ、秋の日差しを浴びて真っ赤に熟した柿を見つけました。

ひと口食べてみると、そのあまりの美味しさに驚いた等海上人は柿を寺へ持ち帰り植樹。

さらに村人たちにも栽培を勧めたと伝えられています。

こうして禅寺丸柿は少しずつ地域に広まり、やがて柿生を代表する特産品へと成長していきました。

いまも残る、800年の記憶

平成19年(2007年)禅寺丸柿の歴史的な価値が改めて評価され、国の登録記念物として、王禅寺境内に残る原木と、そこから広まった民家の柿の木6本、合わせて7本が登録されました。

王禅寺に保存されている原木は、樹齢約450年ともいわれる原木の「ひこばえ」とされ、現在も大切に受け継がれています。

さらに禅寺丸柿は、「かながわの名木100選」や、川崎市選定の「まちの樹50選」にも選ばれています。

平成26年(2014年)には、伝承される発見年から数えて800年という節目を迎えました。

800年の歴史を刻む「禅寺丸柿」

「柿生」という村が生まれる

明治22年(1889年)、町村制の施行によって、黒川、栗木、片平、五力田、古沢、万福寺、上麻生、下麻生、王禅寺、早野の10か村が合併。

地域を代表する特産品にちなみ、「柿生村」という名前が付けられました。


川崎市まちの樹50選・光明寺クスノキ

川崎市まちの樹50選・指定番号9

高津区二子・光明寺の楠(クスノキ)


浄土真宗・光明寺

光明寺の歴史は、甲斐武田氏の家臣だった小山田宗光に始まります。

武田氏滅亡後の1601年(慶長6年)、出家して「宗専」と名乗った宗光は、現在の二子塚公園付近に寺を開きました。

当時この地には「七軒百姓」と呼ばれる農民たちが暮らしていたと伝えられています。

1641年(寛永18年)には、光明寺も七軒百姓とともに現在の場所へ移転。

寺の前を通る矢倉沢往還(大山街道)は、人や物資が行き交う重要な街道でした。

かって本堂には「二子学舎」が置かれていて、この地域の近代小学教育の礎※となりました。※現在における小学校の前身にあたります。

光明寺の境内にある大貫家の墓地には、明治から大正にかけて活躍した文学者、大貫雪之助(晶川)の墓碑が残されています。

雪之助は1887年(明治20年)、現在の川崎市高津区二子にあった大貫家に、寅吉の次男として生まれました。

文学の才能は早くから認められ、第一高等学校在学中には、歌人・与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻が主宰した「新詩社」に参加。

その後、東京帝国大学英文科へ進むと、谷崎潤一郎、和辻哲郎、木村荘太、後藤末雄らとともに、第二次「新思潮」の同人として活動しました。

若き文学者たちが新しい文学を模索する時代にあって、雪之助もその才能を大いに期待されていたといいます。

また、妹は後に歌人・作家として知られる岡本かの子。

兄妹そろって文学の道を歩み、二子の地から東京の文壇へとその世界を広げていきました。

光明寺を訪れた際には、寺の歴史だけでなく、二子から文学の世界へ羽ばたいた若き才能の足跡にも、ぜひ目を向けてみたいところです。


川崎市まちの樹50選・ 梶ヶ谷神明社「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号13

高津区梶ヶ谷・梶ヶ谷神明社の欅(ケヤキ)

梶ヶ谷の歴史を見守る鎮守

川崎市高津区梶ヶ谷に鎮座する梶ケ谷神明社。

その創建は、江戸時代の元禄年間以降と伝えられています。

長い歴史を持つこの神社は、明治時代に大きな転機を迎えます。

もともと梶ケ谷村の鎮守として人々の信仰を集めていた子之神社を合祀し、その後、村社となりました。

御祭神は、太陽を象徴する神として知られる大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)、すなわち天照大神。

江戸から明治、そして現代へ

梶ヶ谷の町が大きく姿を変えていくなかで、地域の人々の暮らしを静かに見守り続けてきた神明社。

住宅地の中に残るその佇まいからは、かつての梶ヶ谷村の風景と、そこに暮らした人々の信仰を感じることができます。

時代が変わっても、地域の記憶を受け継ぐ鎮守の杜。

梶ケ谷神明社は、梶ヶ谷の歴史を訪ねる散歩の途中に、そっと立ち寄りたい一社です。


川崎市まちの樹50選・ 小台「イロハカエデ」

川崎市まちの樹50選・指定番号19

宮前区小台・伊呂波楓(イロハカエデ)

宮前平駅前を通る尻手黒川道路から、ほんの一歩奥へ入ると、そこには風情あふれる竹林が広がっています。

車や人の行き交う街の喧騒から少し離れるだけで、空気がふっと静かになり、まるでこの一帯だけ時間がゆっくりと流れているような、そんな錯覚を覚えます。

竹の葉を揺らす風の音に耳を澄ませながら歩けば、都会の中にいることを忘れてしまいそうです。

そして秋になると、この場所をひときわ美しく彩るのが、見事な紅葉を見せるイロハカエデ。

鮮やかに色づいた葉は竹林の緑と美しいコントラストを描き、道行く人の目を楽しませてくれます。

駅のすぐ近くにありながら、昔ながらの自然の面影を感じさせてくれる都会のオアシスです。

季節の移ろいを身近に感じながら、ほんの少し足を止めてみたくなる、そんな静かな風景がここには残されています。


川崎市まちの樹50選・平1丁目「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号22

宮前区平・平1丁目の欅(ケヤキ)

平を見守る、一本の欅

多摩丘陵に建ち並ぶマンション群を背景に、平一丁目交差点を見下ろす小高い場所に、一本の欅が立っています。

近くを流れる平瀬川から少し離れると、坂道が続く宮前区平。

この「平」という地名ですが、一説によると古くこの地を領した「葛山平殿」という人物に由来するという説があり、川崎市のウェブサイトにも、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に「平」の名が記されているとありました。

一方で、「平(たいら)」は、なだらかな傾斜地を表す言葉でもあり、丘陵と平瀬川がつくる穏やかな地形から名付けられたという説もあります。

丘と坂、そして平瀬川が織りなす平の風景。

その景色を高台から見渡すこの欅を眺めていると、土地の姿そのものが「平」という地名につながったよう気がします。


川崎市まちの樹50選・有馬4丁目「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号23

宮前区有馬・有馬4丁目の欅(ケヤキ)

有馬の緑に佇む、一本の欅

有馬地区には、今も公園や畑などの緑が残り、住宅地の中にも、どこか昔ながらの風景を感じることができます。

その一角に、悠然と立っている一本の欅があります。

民家の庭先に根を下ろし、長い年月を過ごしてきたと思われるその姿は、周囲の住宅とは対照的に、どこか堂々とした存在感を漂わせています。

すぐ隣には、メタセコイヤの大木がシンボルになっている「有馬中央公園」。

少し足を延ばせば、樫の大木をシンボルとする「有馬かしの木公園」もあります。


こうして見てみると、有馬にはそれぞれの場所で地域の風景をつくってきた、大きな木が残されています。

しかし、民家の庭先という暮らしのすぐそばで、これほど堂々とした姿を保っていることに、この木ならではの存在感があります。

太い幹から伸びる枝は大きく空へ広がり、住宅が並ぶ街並みの中で、まるでそこだけ時間の流れが違うかのよう。

長い年月を重ねてきた欅だからこそ生まれる、幹の力強さ、枝ぶりの雄大さ。そして、何気ない住宅地の風景を一変させるほどの迫力があります。

公園のシンボルとはまた違う、生活の風景に根を下ろした大樹です。

道を歩いていてふと目に入ったとき、その大きさに思わず足を止めてしまう。

そんな「街の中の巨木」として、この欅は今日も有馬の風景を形づくっています。


川崎市まちの樹50選・御杓文字橋「栴檀」

川崎市まちの樹50選・指定番号37

多摩区西生田・御杓文字橋の栴檀(センダン)

小田急線・読売ランド前駅の北口から津久井道を西へ進むこと約200メートル。

街の喧騒から少し離れた場所に、五反田川を渡る小さな橋があります。

その名は、「御杓文字橋(おしゃもじばし)」

橋のたもとに目を向けると、川辺の風景に溶け込むように一本の大きな栴檀(センダン)が立っています。

この栴檀は、植えられた庭木ではなく、橋のたもとに自生したもの。

春から初夏にかけて淡い紫色の小さな花を咲かせ、夏には緑の葉を茂らせます。

そして秋になると葉を落とし、黄色い実を枝いっぱいにつける姿も印象的です。

川辺にひっそり佇む、御杓文字橋の栴檀

駅からわずか数分。

車や人が行き交う津久井道のすぐそばにありながら、五反田川の流れとともに静かに季節を重ねています。

何気なく通り過ぎてしまいそうな小さな橋と一本の木。

けれど、足を止めて見上げてみれば、そこには地域の風景を長い年月にわたって見守ってきた一本の栴檀の物語があります。

読売ランド前駅周辺を散策する際には、御杓文字橋まで少し足を延ばしてみるのもおすすめです。

川のせせらぎに耳を傾けながら、橋のたもとに佇む栴檀を眺める――。

そんな小さな発見が、いつもの街歩きを少しだけ特別なものにしてくれます。