高津区向ヶ丘・しばられ松(マツ)

川崎市まちの樹50選・番外編

高津区向ヶ丘のしばられ松(聖松)

地元に伝わる、子どもの病気を治す松

昔、相模から訪れた六部(巡礼者)が百日咳にかかり、この地で亡くなり、その跡に植えられた松が「聖(ひじり)松」と呼ばれるようになりました。

この松はとても寂しがり屋で、ときどき仲間の松のところへ遊びに出かけてしまったそうです。

伝承に「枝葉が相模の国の方向を向いて茂っていた」とあるので、相模の国へ遊びに行っていたのかもしれません。

困ったことに、この松が飛んで遊びに出かける際の風で、子どもたちが風邪(百日咳?)をひいてしまったそうです。

そこで村人たちはどこにも行かないようにと松の根元を縄で縛ったそうです。

すると、子どもたちの百日咳が治まったことから、いつしかこの松は「しばられ松」と呼ばれるようになり、地域の子供が病気になると、素縄を左に編んで松に結び願をかけ、病気が治ると、今度は右縄を編んで幹に結び願ほどきをする風習が生まれたそうです。

明治二十年ごろ落雷にあい、現在の姿になってしまったようです。

今も残る「しばられ松」という呼び名には、この土地で暮らしてきた人々の素朴な信仰と、子どもたちの健康を願う思いが込められています。


川崎市まちの樹50選・白幡八幡大神「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号21

宮前区平・白幡八幡大神の楠(クスノキ)

稲毛領の人々を見守ってきた、必勝の神

川崎市宮前区平の高台に鎮座する、白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん)。

古くから「稲毛領総鎮守」として地域の人々から篤く信仰されてきた神社で、現在も合格や成功、勝利を願う「必勝の神様」として、多くの人が訪れています。

その歴史は古く、平安時代の武将・源頼義による奥州征伐にまつわる伝承から始まります。

奥州征伐の成功を願った祈り

神社の由緒によれば、康平元年(1058年)、源頼義が奥羽二国の征討将軍として遠征に向かう際、崇敬していた鎌倉の八幡神の加護を願い、ある誓いを立てました。

「無事に使命を果たすことができたなら、鎌倉から奥州へ向かう街道十里(約40km)ごとに八幡祠を一社ずつ建立する」というものです。

その最初の里程にあたったのが、現在の白幡八幡大神の地だったと伝えられています。

頼義は山上に幣帛を捧げ、戦勝を祈願しました。

その願いが神に通じたのか、無事に使命を果たして帰還すると、康平4年(1061年)にこの地へ八幡神を祀ったとされています。

現在「必勝の神様」として信仰される背景には、こうした戦勝祈願の物語があるのです。

源頼朝による再建

その後、戦乱によって国内が乱れると、神社も荒廃したと伝えられています。

鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、祖先の事績を調べ、建久3年(1192年)に神社を再建。

さらに鎌倉の八幡宮から御霊分けを受け、「源栄山八幡宮」と称するようになったとされています。

この頃、稲毛三郎重成が桝杉山に居を構え、この地域の領主となりました。

そして白幡八幡大神は、稲毛領57か村の総鎮守として崇敬されるようになったと伝えられています。

現在も社殿に掲げられている額には、「稲毛惣社」の文字が残されています。

徳川家康から70石の朱印地

江戸時代に入ると、白幡八幡大神はさらに大きな庇護を受けることになります。

天正19年(1591年)、徳川家康から朱印地70石を寄進されたと伝えられています。

稲毛領の総鎮守として、地域の人々の信仰を集めてきた神社が、江戸時代にも重要な社として扱われていたことがうかがえます。

本殿に鎮座する御神像は、享保12年(1727年)に奉彫されたものと伝えられています。

「白幡八幡大神」へ

明治6年(1873年)には郷社に列せられ、この頃から「白幡大明神」と称されるようになりました。

現在の御祭神は、応神天皇・玉依姫命・神功皇后の三柱。

現在の社殿は、昭和48年(1973年)10月に再建されたものです。

長い歴史の中で社殿の姿は変わっても、地域の鎮守として人々が寄せてきた信仰は、今も受け継がれています。

江戸城でも舞われた「禰宜舞」

白幡八幡大神には、もう一つ大切な伝統が残されています。

それが、毎年7月と9月の第3日曜日に奉納される「禰宜舞(ねぎまい)」です。

川崎市の市重要習俗技芸に指定されている伝統芸能で、江戸時代初期には正月3日に江戸城へ上り、将軍の前で舞ったとも伝えられています。

現在は夏祭や例大祭の際に、氏子の家内安全などを願って奉納されています。

舞は素面による「四方祓」の舞から始まり、その後、面や衣裳を替えながら五座の神々の舞を行います。

長い年月を越えて、今も地域に受け継がれている貴重な伝統です。


川崎市まちの樹50選・専修大学前「エンジュ」

川崎市まちの樹50選・指定番号35

多摩区枡形・生田緑地エンジュ(槐)

生田緑地の西側に隣接する専修大学前バス停ロータリーのシンボルツリーとなっているエンジュです。

エンジュはマメ科の高木の広葉樹で、 夏場に葉を茂らせる事から木陰を作る緑陰樹として植えられる事が多いようです。

白と黒褐色の重厚な材は「延寿(エンジュ)」として縁起の良い木とされ、住宅の床柱の材料としても人気があるようです。



川崎市まちの樹50選・東光院「イトヒバ」

川崎市まちの樹50選・指定番号46

麻生区岡上・東光院の糸桧葉(イトヒバ)

「光る丘」に始まった、岡上の古刹

川崎市麻生区岡上にある、岡上山東光院宝積寺(おかのぼりさんとうこういんほうしゃくじ)。

創建年代ははっきりしていませんが、江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』には、天正年間(1573~1592年)までに開山・開基から数えて十一代に及んでいたと記されています。

その歴史の古さを物語るように、この寺には興味深い縁起が伝えられています。

光る丘で見つかった毘沙門天

伝承によれば、かつて行基菩薩が関東へ下った際、鶴見川の川岸から不思議な光が見えたといいます。

その光を目指していかだを降り、丘へ上がった行基は、光っている丘の北側を掘りました。

すると、そこから姿を現したのが毘沙門天像。

行基はその毘沙門天を祀るために草庵を結び、これが東光院の始まりになったと伝えられています。

東光院を訪れたなら、ぜひ知っておきたいのが寺宝の木造兜跋毘沙門天立像(もくぞう とばつびしゃもんてんりゅうぞう)です。

兜跋毘沙門天は、通常の毘沙門天とは異なり、地天(ちてん)の両手の上に立つ姿で表される、特徴的な毘沙門天です。

「光る丘」にまつわるこの伝承は、現在の寺名「東光院」の由来を思わせる、印象的な物語です。


川崎市まちの樹50選・東光院「イチョウ」

川崎市まちの樹50選・指定番号47

麻生区岡上・東光院の公孫樹(イチョウ)

豊かな木々に包まれた境内

その中でも、イトヒバ、イチョウ、カキノキの三本は、川崎市選定の「まちの樹50選」に選ばれています。

長い歴史を持つ寺院では、建物だけでなく、そこに根を張る木々もまた、境内の記憶を受け継ぐ存在です。

季節ごとに姿を変える木々を眺めながら境内を歩けば、古い仏像や板碑とともに、この場所で積み重ねられてきた時間を感じることができます。

川辺で見つけられたという「光る丘」と、そこから現れた毘沙門天。

そんな物語が長い年月を越えて語り継がれていること自体が、この土地に刻まれた歴史の一つなのかもしれません。

岡上の静かな丘に佇む東光院。

その境内に立つ古木を見上げながら歩けば、遠い昔、この地に草庵が結ばれた頃の風景に、少しだけ思いを馳せることができます。


川崎市まちの樹50選・東光院「カキノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号48

麻生区岡上・東光院の柿の木(カキノキ)

徳川家光から与えられた寺領

江戸時代になると、東光院は幕府からも寺院として認められることになります。

徳川家光から寺領15石の御朱印状を受領したと伝えられており、当時の東光院が地域の信仰を支える寺院として存在していたことがうかがえます。

鎌倉道にも近い岡上の地で、東光院は人々の往来と信仰を見守りながら、長い年月を重ねてきました。

本尊は大日如来。

宗派は真言系です。

境内には仁王門や鐘楼堂をはじめ、瘡守稲荷、蚕影山祠堂跡などが残されています。

仁王門では、左右に力強い仁王像が立ち、その背面には六地蔵。門の階上には阿弥陀三尊を中心に、十王などが安置されています。

本堂には、寺の縁起に登場する兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)も安置されています。

さらに、昭和15年(1940年)、堰の改修工事中に水深約1メートルの用水路から発見されたという板碑も伝わっています。

こうした仏像や石造物をたどっていくと、東光院が長い年月にわたって地域の信仰を受け継いできたことが感じられます。


川崎市まちの樹50選・丸山教本庁「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号26

多摩区登戸・丸山教本庁 楠(クスノキ)

川崎市多摩区登戸にある丸山教本庁の境内には、ひときわ大きなクスノキが立っています。

その昔、登戸を通る「江戸道」と呼ばれた津久井道からも、その姿を望むことができたといいます。

道を行き交う人々にとって、この大きなクスノキは遠くからでも目に入る存在。

いつしか地域の目印となり、登戸の風景の一部として親しまれてきました。

長い年月を重ね、季節ごとに葉を茂らせながら、境内を訪れる人々を静かに迎えてきたクスノキ。

街の姿が変わり、道を行き交う人々の暮らしが変わっても、変わらぬ場所に立ち続けるその姿には、登戸の昔と今をつなぐ「街の記憶」が感じられます。

川崎市まちの樹50選・丸山教本庁「フジ」

川崎市まちの樹50選・指定番号25

多摩区登戸・丸山教本庁 藤(フジ)

多摩区登戸にある丸山教本庁。

その境内には、樹齢約120年と伝えられる藤の古木があります。

「丸山の六尺藤」と呼ばれ、地域の人々に親しまれてきたこの藤。

毎年、花の季節になると、藤棚いっぱいに紫色の花房を垂らし、訪れる人の目を楽しませてくれます。

長い年月を重ねてきた藤は、まるで境内の歴史を静かに見守ってきたかのよう。風に揺れる花房からは、やわらかな香りが漂い、境内全体が穏やかな春の空気に包まれます。

その美しさをひと目見ようと、遠方から訪れる人もいるという「丸山の六尺藤」。

登戸の街の一角で、毎年変わらぬように花を咲かせながら、季節の訪れとともに、長い年月の記憶を今に伝えています。


川崎市まちの樹50選・千代ヶ丘9丁目「タブノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号43

麻生区千代ヶ丘・千代ヶ丘9丁目の椨の木(タブノキ)

樹齢800年ともいわれるタブノキ、通りに面した民家の敷地入口に、まるで門番のように堂々と立っています。

800年の時を刻む、威風堂々のタブノキ

伝承によれば、所有者のご先祖は、楠木正成の一族に繋がるとされ、足利幕府に追われこの地へ移り住んだそうです。

それが今からおよそ500年前。

そして、その頃にはすでに、この場所にこのタブノキが立っていたのだとか。

長い年月を生き抜いてきた幹は太く、枝を大きく広げたその姿は圧巻。

住宅街の一角にありながら、ひと目見ただけで思わず足を止めてしまうほどの存在感があります。

風雨にさらされ、幾度もの季節を越えてきた樹皮には、悠久の時が刻まれているかのよう。

幾世代もの人々の暮らしを見守り、周囲の景色が変わっていく中でも、ただ静かに立ち続けてきた一本の木。

800年という歳月を想像しながらその姿を見上げると、一本の巨木が、この土地の歴史そのものに見えてきます。


川崎市まちの樹50選・ 末長「江戸見桜・大島桜」

川崎市まちの樹50選・指定番号6

高津区末長の「江戸見桜・オオシマザクラ」


大山詣りの目印

伊勢原の大山は、別名「雨降山(あふりやま)」とも呼ばれ、雨乞いや五穀豊穣、さらには商売繁盛の御利益がある山として古くから人々の信仰を集めてきました。

江戸時代に流行した「大山詣り」は、関所を通る必要がなく、気軽に出かけられる旅として人気を集めました。

参拝の帰りには、江の島や金沢八景などの名所に立ち寄って観光を楽しむ人も多く、まさに信仰とレジャーを兼ねた旅だったようです。

江戸の人口が約100万人だった時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと伝えられており、その人気ぶりがうかがえます。

「大山街道からの目印」、或いは「この場所から江戸が見える」という事から「江戸見桜」と呼ばれるようになったそうです。

条件が整えば、ここからスカイツリーや東京タワーも眺望できます