高津区二子・二子二丁目公園「ヒマラヤスギ」

川崎市まちの樹50選・番外編

大貫家の記憶を伝える一本のヒマラヤスギ

川崎市高津区二子の住宅街に、こぢんまりとした二子二丁目公園があります。


現在は地域の人々が憩う身近な公園ですが、ここはかつて、二子を代表する豪商・大貫家の屋敷があった場所。

大貫家は、江戸時代に屋号を「大和屋」と称し、幕府や諸大名の御用商人として栄えた豪商です。

公園の一角にそびえる大きなヒマラヤスギが、往時の屋敷の面影を今に伝えています。

大貫家は、歌人・作家として知られる岡本かの子の生家

公園には「大貫家の人々」と題した川崎歴史ガイドの案内板も設置され、二子の地から羽ばたいた文学者・芸術家たちの足跡を伝えています。

かの子は旧姓を大貫かの子といい、この二子の地で生まれ育ちました。

その息子が、後に日本を代表する芸術家となる岡本太郎です。

また、大貫家には文学の才能に恵まれた人物がもう一人いました。

かの子の兄、大貫雪之助(晶川)です。

雪之助は若くして文学の道に進み、谷崎潤一郎らとともに文学活動を行うなど、将来を大きく期待された青年でした。

しかし、その才能を十分に開花させることなく、1912年(大正元年)、25歳という若さでこの世を去っています。

その墓碑は、現在も近くの光明寺境内に残されています。


こうして見ていくと、二子二丁目公園は、単なる住宅街の公園ではありません。

現在の公園は小さな空間ですが、そこに立つ一本のヒマラヤスギは、かつてこの場所に広がっていた大貫家の屋敷を想像させてくれます。


川崎市まちの樹50選・坂戸ケヤキ

川崎市まちの樹50選・指定番号12

高津区坂戸・欅(ケヤキ)

企業の敷地に残る、大きな欅

かながわサイエンスパークの隣には、精密測定機器を製造する企業の広大な敷地があります。

その一角でひときわ目を引くのが、堂々と枝を広げる大きな欅(ケヤキ)です。

人の手によって整えられたというよりも、長い年月をかけて自然のままに成長したような、美しい樹形を保つ姿。

その大きさと存在感は、周囲の建物とは対照的でありながら、不思議なほど景観に溶け込んでいます。

精密機器を生み出す企業の敷地に、これほど大きな樹木が大切に残されていることは、単なる緑地以上の意味を感じさせます。

技術の発展と自然との共存。

この一本の欅は、企業が長い年月にわたって環境を大切にしてきた姿勢を、静かに物語っているようです。


高津区向ヶ丘・しばられ松(マツ)

川崎市まちの樹50選・番外編

高津区向ヶ丘のしばられ松(聖松)

地元に伝わる、子どもの病気を治す松

昔、相模から訪れた六部(巡礼者)が百日咳にかかり、この地で亡くなり、その跡に植えられた松が「聖(ひじり)松」と呼ばれるようになりました。

この松はとても寂しがり屋で、ときどき仲間の松のところへ遊びに出かけてしまったそうです。

伝承に「枝葉が相模の国の方向を向いて茂っていた」とあるので、相模の国へ遊びに行っていたのかもしれません。

困ったことに、この松が飛んで遊びに出かける際の風で、子どもたちが風邪(百日咳?)をひいてしまったそうです。

そこで村人たちはどこにも行かないようにと松の根元を縄で縛ったそうです。

すると、子どもたちの百日咳が治まったことから、いつしかこの松は「しばられ松」と呼ばれるようになり、地域の子供が病気になると、素縄を左に編んで松に結び願をかけ、病気が治ると、今度は右縄を編んで幹に結び願ほどきをする風習が生まれたそうです。

明治二十年ごろ落雷にあい、現在の姿になってしまったようです。

今も残る「しばられ松」という呼び名には、この土地で暮らしてきた人々の素朴な信仰と、子どもたちの健康を願う思いが込められています。


川崎市まちの樹50選・ 末長「江戸見桜・大島桜」

川崎市まちの樹50選・指定番号6

高津区末長の「江戸見桜・オオシマザクラ」


大山詣りの目印

伊勢原の大山は、別名「雨降山(あふりやま)」とも呼ばれ、雨乞いや五穀豊穣、さらには商売繁盛の御利益がある山として古くから人々の信仰を集めてきました。

江戸時代に流行した「大山詣り」は、関所を通る必要がなく、気軽に出かけられる旅として人気を集めました。

参拝の帰りには、江の島や金沢八景などの名所に立ち寄って観光を楽しむ人も多く、まさに信仰とレジャーを兼ねた旅だったようです。

江戸の人口が約100万人だった時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと伝えられており、その人気ぶりがうかがえます。

「大山街道からの目印」、或いは「この場所から江戸が見える」という事から「江戸見桜」と呼ばれるようになったそうです。

条件が整えば、ここからスカイツリーや東京タワーも眺望できます


高津区久本・ターザンの木(スダジイ)

川崎市まちの樹50選・番外編

高津区久本のターザンの木(スダジイ)

昭和の子どもたちが遊んだターザンの木

川崎市まちの樹50選に選ばれた 江戸見桜 から直ぐ先に「ターザンの木」と呼ばれているスダジイの巨木があります。

そこに、地元の人々から「ターザンの木」と呼ばれているスダジイの巨木があります。

名前の由来を尋ねてみると、話は昭和30年代まで遡ります。

今のようにテレビゲームもパソコンもなく、子どもたちの遊びといえば、外へ出て友達と走り回るのが当たり前だった時代。

当時、子どもたちの間で人気を集めていたのが、ジャングルを舞台に活躍する「ターザン」でした。

このスダジイには、ちょうど子どもたちが遊べるような枝があり、ターザンになったつもりでぶら下がって遊んだといいます。

未就学児から小学生、時には中学生や高校生まで、年齢の違う子どもたちが集まり、放課後になると自然とこの木の周りに仲間が集まったそうです。

いつしか、「あの木で遊ぼう」「ターザンの木に集合!」と。

そんな呼び方が定着し、現在の名前になったと地元の方は話してくれました。

木が残した、昭和の記憶

「ターザンの木」という名前には、単なる遊び場の呼び名以上のものが込められています。

それは、一本の木を中心に子どもたちが集まり、遊び、笑い声を響かせていた昭和の風景です。

ちなみに、当時のターザン人気を支えたのが、アメリカの競泳金メダリストから俳優へ転身したジョニー・ワイズミュラーです。

彼が主演したターザン映画は1932年から1949年にかけて13作品が制作されるほどの人気シリーズでした。

そんな時代の空気が、この一本のスダジイに「ターザン」という名前を残したのかもしれません。

今では、蔦にぶら下がる子どもたちの姿を見ることは少なくなりましたが、それでも、長い年月を生きてきたスダジイは、変わらずこの場所に立っています。

川崎市まちの樹50選・杉山神社「シイノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号5

高津区末長・杉山神社のシイノキ(椎の木)

末長の鎮守を見守る、大きなシイノキ

矢上川左岸の丘陵台地。その東側から入り込む谷戸の奥へ進んでいくと、斜面に沿って続く長い階段の参道が現れます。

その先に鎮座するのが、末長杉山神社です。

創建年代は明らかではありませんが、古くから末長村の鎮守として地域の人々に信仰されてきた神社。

現在の御祭神は五十猛命(いたけるのみこと)で、相殿には天照大御神が祀られています。

そして境内でひときわ目を引くのが、長い年月を生きてきた大きなシイノキです。

古くから末長を守ってきた鎮守

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、末長村の「杉山社」について記録が残されています。

そこには、創建年代は分からないものの、丘の上に社殿があり、松の木が茂る境内であったこと、そして村内三給の鎮守として祀られ、明鏡寺が別当として管理していたことが記されています。

当時から、この神社が地域の人々にとって大切な鎮守であったことがうかがえます。

また、かつて村内には伊勢宮もありましたが、現在はこちらに合祀されています。

一度は失われた、由緒ある社殿

長い歴史を持つ末長杉山神社ですが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。

昭和39年(1964年)4月5日未明、火災によって社殿が全焼。

古くから地域の人々に受け継がれてきた社殿は、惜しくも失われてしまいました。

しかし、氏子たちは神社を再びこの地に取り戻すことを決意します。

昭和46年(1971年)1月、地域の安寧と住民の和平を願い、神社再建の計画が立てられました。

氏子をはじめ地域の人々が力を合わせ奉納浄財を集め、同年6月11日に地鎮起工。

そして12月13日の上棟を経て、本殿や社務所、境内の整備などが進められました。

再建計画からわずか1年余りで、必要な施設が完成。

一度は失われた社殿が、地域の人々の力によって再び姿を取り戻したのです。

木々に包まれた、静かな境内

現在の境内はきれいに整備され、周囲の木々が豊かな緑をつくっています。

その中でも大きなシイノキは、訪れる人の目を引く存在です。

社殿が焼失するという大きな出来事を経験しながらも、神社は地域の人々の手によって再建され、今も末長の鎮守として受け継がれています。

大きなシイノキもまた、そんな地域の歴史を静かに見つめてきた一本なのかもしれません。

古くから末長の人々に寄り添い、火災による苦難を乗り越えて再び甦った末長杉山神社。

谷戸の奥へ続く石段を一歩ずつ上っていくと、木々の間から現れる境内。

そこには、神社そのものだけでなく、地域の人々が守り、受け継いできた「ふるさとの記憶」が残されています。v


川崎市まちの樹50選・二子神社ムクノキ(椋)

川崎市まちの樹50選・指定番号8

高津区二子・二子神社の椋(ムクノキ)

川崎市高津区二子に鎮座する二子神社

かつては「神明社」と呼ばれていましたが、明治時代に大六天と稲荷を合祀し、地名にちなみ現在の社名となりました。

その起源は、江戸時代よりさらに遡ります。


地元に伝わる話によれば、戦国時代に武田家の旧臣・小山田兵部がこの地に住み、天照大御神を祀ったことが始まりとされています。

1641年(寛永18年)には、天照皇大神を守護神として祠が建立されたと伝えられています。

江戸時代になると、二子は多摩川の渡船場を擁する宿場町として発展。

二子神社はその鎮守として、旅人や商人など、町を行き交う多くの人々の信仰を集めてきました。

境内には、二子新地の歴史を感じさせる「出世稲荷」も祀られています。

1930年(昭和5年)、当時この地域で栄えていた「二子三業組合」によって伏見稲荷から勧請されたものです。

「三業」とは、芸妓置屋・待合・料亭の三業種を指す言葉。

二子新地では昭和30年代頃まで花街が盛んで、神社周辺にもその華やかな文化が息づいていました。

境内に建つ岡本かの子の文学碑

二子村の旧家・大貫家に生まれ、多摩川をこよなく愛した歌人・作家、岡本かの子。

そのゆかりの地であることから、多摩川を望むこの場所に文学碑が建てられました。

碑の中心となる大型の抽象彫刻「誇り」は、かの子の息子である芸術家・岡本太郎の作品。

築山を思わせる台座は建築家・丹下健三が設計し、1962年(昭和37年)に完成しました。

碑には、かの子の歌「としとしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」が刻まれているほか、亀井勝一郎が岡本かの子について記した文章を、川端康成の書で刻んだ碑も残されています。

宿場町として人々が行き交った二子の歴史と、花街の華やかな記憶。

そして、多摩川を愛した岡本かの子と、その息子・岡本太郎へとつながる芸術の物語。

二子神社は、静かな境内の中に、二子の町が歩んできた歴史と、多摩川沿いに育まれた文化をそっと刻んでいる神社です。


川崎市まちの樹50選・大陸天公園イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号10

高津区二子・大陸天公園のイチョウ(公孫樹)

神社の記憶を残す、二子の公園

川崎市高津区の住宅街に佇む大陸天公園。

砂場やブランコ、すべり台、鉄棒などの遊具がそろい、近隣の子どもたちの遊び場として親しまれている、比較的ゆったりとした公園です。

現在は公園となっていますが、この場所にはかつて神社がありました。

大正時代に二子神社へ合祀されたため神社そのものは姿を消しましたが、園内には神社旧蹟が残され、かつてここが信仰の場であったことを今に伝えています。

園内でひときわ目を引くのが、大きなイチョウの木。

枝葉を大きく広げ、夏には心地よい木陰をつくってくれます。

子どもたちが遊ぶ傍らで、長い年月を生きてきた木が静かに公園を見守っています。

この公園が整備されたのは昭和後期。

第二次ベビーブームによる子どもの増加を背景に、住宅地の中にも子どもたちが安心して遊べる場所が求められました。

今では何気ない街の公園のひとつですが、そこにはかつての神社の記憶と、昭和の子育て世代を支えた地域の歴史が重なっています。

遊具で遊ぶ子どもたち、大きなイチョウの木の木陰、そしてひっそりと残る神社旧蹟。

大陸天公園は、日々の暮らしの中に歴史がそっと息づく、二子らしい小さな憩いの場所です。


川崎市まちの樹50選・橘樹神社イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号11

高津区子母口・橘樹神社のイチョウ(公孫樹)

古代の記憶を今に伝える、子母口の鎮守

川崎市高津区子母口の高台に鎮座する橘樹神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、その妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)を祀る、地域の古い鎮守です。

かつては「立花社」とも呼ばれ、古くから子母口の人々に信仰されてきました。

その歴史を語るうえで欠かせないのが、日本武尊と弟橘媛にまつわる伝説です。

東征の途中、海が荒れたため、弟橘媛は日本武尊を救うため自ら海に身を投じたと伝えられています。

やがて媛の御衣や御冠などがこの地に漂着したという社伝から、ここに祀られるようになったとされています。

近くにある富士見台古墳にも、弟橘媛の「御陵」であるという伝承が残されています。

ただし、この古墳は実際には6世紀頃に築かれたものと考えられ、当時この地域を治めていた有力者の墓とする説もあります。

弟橘媛の御陵とする説を裏付ける確かな史料はなく、古代の歴史と伝説が重なり合う場所として、今も静かに残されています。

さらに興味深いのが、この一帯がかつて橘樹郡の中心地だったと考えられていることです。

神社の近隣には古代の郡役所にあたる「橘樹郡衙」が置かれていたと推定され、橘樹郡の総社であった可能性も指摘されています。

神社の周辺には、縄文時代の「子母口貝塚」、白鳳期の創建と伝わる「影向寺」、その塔頭のひとつだった「能満寺」など、古代から続く歴史の舞台が点在しています。

境内に残る、二つの歴史の碑

橘樹神社の境内には、日本武尊と弟橘媛の伝説を今に伝える、二つの石碑が静かに佇んでいます。

ひとつは、「日本武の松」の歌碑。


高さ約174cm、幅約90cm、厚さ34cmの堂々とした石碑で、表面には幕末から明治にかけて活躍した政治家・山岡鉄太郎(鉄舟)の筆による「日本武の松」の文字が刻まれています。

その左側には、押小路實潔による「社頭松」の一首が刻まれています。

碑の裏側にも、当時の人々の記憶が残されています。中央には「氏子中」の文字が刻まれ、その左右には神官であり神道本局大講義を務めた森義徳と、伊藤壽三郎房壽の和歌が記されています。

伊藤壽三郎房壽は、かつて橘樹神社にあった狛犬の建立にも関わった人物。そのことから、この歌碑も明治10年代前後に建立されたものではないかと考えられています。

もうひとつが、「橘比売命神廟」碑。


弟橘媛を祀る橘樹神社ならではの石碑で、日本武尊と弟橘媛にまつわる古い伝承が、この地で大切に受け継がれてきたことを物語っています。

川崎市まちの樹50選・光明寺クスノキ

川崎市まちの樹50選・指定番号9

高津区二子・光明寺の楠(クスノキ)


浄土真宗・光明寺

光明寺の歴史は、甲斐武田氏の家臣だった小山田宗光に始まります。

武田氏滅亡後の1601年(慶長6年)、出家して「宗専」と名乗った宗光は、現在の二子塚公園付近に寺を開きました。

当時この地には「七軒百姓」と呼ばれる農民たちが暮らしていたと伝えられています。

1641年(寛永18年)には、光明寺も七軒百姓とともに現在の場所へ移転。

寺の前を通る矢倉沢往還(大山街道)は、人や物資が行き交う重要な街道でした。

かって本堂には「二子学舎」が置かれていて、この地域の近代小学教育の礎※となりました。※現在における小学校の前身にあたります。

光明寺の境内にある大貫家の墓地には、明治から大正にかけて活躍した文学者、大貫雪之助(晶川)の墓碑が残されています。

雪之助は1887年(明治20年)、現在の川崎市高津区二子にあった大貫家に、寅吉の次男として生まれました。

文学の才能は早くから認められ、第一高等学校在学中には、歌人・与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻が主宰した「新詩社」に参加。

その後、東京帝国大学英文科へ進むと、谷崎潤一郎、和辻哲郎、木村荘太、後藤末雄らとともに、第二次「新思潮」の同人として活動しました。

若き文学者たちが新しい文学を模索する時代にあって、雪之助もその才能を大いに期待されていたといいます。

また、妹は後に歌人・作家として知られる岡本かの子。

兄妹そろって文学の道を歩み、二子の地から東京の文壇へとその世界を広げていきました。

光明寺を訪れた際には、寺の歴史だけでなく、二子から文学の世界へ羽ばたいた若き才能の足跡にも、ぜひ目を向けてみたいところです。