川崎市まちの樹50選・杉山神社「シイノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号5

高津区末長・杉山神社のシイノキ(椎の木)

末長の鎮守を見守る、大きなシイノキ

矢上川左岸の丘陵台地。その東側から入り込む谷戸の奥へ進んでいくと、斜面に沿って続く長い階段の参道が現れます。

その先に鎮座するのが、末長杉山神社です。

創建年代は明らかではありませんが、古くから末長村の鎮守として地域の人々に信仰されてきた神社。

現在の御祭神は五十猛命(いたけるのみこと)で、相殿には天照大御神が祀られています。

そして境内でひときわ目を引くのが、長い年月を生きてきた大きなシイノキです。

古くから末長を守ってきた鎮守

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、末長村の「杉山社」について記録が残されています。

そこには、創建年代は分からないものの、丘の上に社殿があり、松の木が茂る境内であったこと、そして村内三給の鎮守として祀られ、明鏡寺が別当として管理していたことが記されています。

当時から、この神社が地域の人々にとって大切な鎮守であったことがうかがえます。

また、かつて村内には伊勢宮もありましたが、現在はこちらに合祀されています。

一度は失われた、由緒ある社殿

長い歴史を持つ末長杉山神社ですが、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。

昭和39年(1964年)4月5日未明、火災によって社殿が全焼。

古くから地域の人々に受け継がれてきた社殿は、惜しくも失われてしまいました。

しかし、氏子たちは神社を再びこの地に取り戻すことを決意します。

昭和46年(1971年)1月、地域の安寧と住民の和平を願い、神社再建の計画が立てられました。

氏子をはじめ地域の人々が力を合わせ奉納浄財を集め、同年6月11日に地鎮起工。

そして12月13日の上棟を経て、本殿や社務所、境内の整備などが進められました。

再建計画からわずか1年余りで、必要な施設が完成。

一度は失われた社殿が、地域の人々の力によって再び姿を取り戻したのです。

木々に包まれた、静かな境内

現在の境内はきれいに整備され、周囲の木々が豊かな緑をつくっています。

その中でも大きなシイノキは、訪れる人の目を引く存在です。

社殿が焼失するという大きな出来事を経験しながらも、神社は地域の人々の手によって再建され、今も末長の鎮守として受け継がれています。

大きなシイノキもまた、そんな地域の歴史を静かに見つめてきた一本なのかもしれません。

古くから末長の人々に寄り添い、火災による苦難を乗り越えて再び甦った末長杉山神社。

谷戸の奥へ続く石段を一歩ずつ上っていくと、木々の間から現れる境内。

そこには、神社そのものだけでなく、地域の人々が守り、受け継いできた「ふるさとの記憶」が残されています。v


川崎市まちの樹50選・小杉神社「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号4

中原区・小杉神社の欅(けやき)

小杉の歴史を紡ぐ、街の守護神

武蔵小杉の賑わいを見守る「小杉神社」。

その歴史を紐解くと、江戸時代にあった3つの神社にたどり着きます。

かつて小杉御殿町に鎮座していたのは、「杉山社」「神明社」、そして神明社に合祀されていた「総社権現」

地域の人々の心をひとつにする、大切な精神的支柱でした。

江戸以前からこの地を守る「杉山社」の御祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)で、武運長久や開運招福をもたらす頼もしい地域の守り神です。

一方「神明社」の主祭神は、光や慈愛、真実を象徴する太陽の神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、かつて多摩川の氾濫で社地を失った「総社権現」を包み込み、温かく地域を照らし続けてきました。

やがて時は流れ、戦後の1951年(昭和26年)。

神明社が杉山社へと合祀され、現在の「小杉神社」となりました。

形を変えながらも、今なお地域の祭礼や賑わいを支える拠地として愛され続けています。

川崎フロンターレのホームスタジアム(Uvanceとどろきスタジアム by Fujitsu)に隣接しているので、必勝祈願に訪れるサポーターも多いようです。


川崎市まちの樹50選・二子神社ムクノキ(椋)

川崎市まちの樹50選・指定番号8

高津区二子・二子神社の椋(ムクノキ)

川崎市高津区二子に鎮座する二子神社

かつては「神明社」と呼ばれていましたが、明治時代に大六天と稲荷を合祀し、地名にちなみ現在の社名となりました。

その起源は、江戸時代よりさらに遡ります。


地元に伝わる話によれば、戦国時代に武田家の旧臣・小山田兵部がこの地に住み、天照大御神を祀ったことが始まりとされています。

1641年(寛永18年)には、天照皇大神を守護神として祠が建立されたと伝えられています。

江戸時代になると、二子は多摩川の渡船場を擁する宿場町として発展。

二子神社はその鎮守として、旅人や商人など、町を行き交う多くの人々の信仰を集めてきました。

境内には、二子新地の歴史を感じさせる「出世稲荷」も祀られています。

1930年(昭和5年)、当時この地域で栄えていた「二子三業組合」によって伏見稲荷から勧請されたものです。

「三業」とは、芸妓置屋・待合・料亭の三業種を指す言葉。

二子新地では昭和30年代頃まで花街が盛んで、神社周辺にもその華やかな文化が息づいていました。

境内に建つ岡本かの子の文学碑

二子村の旧家・大貫家に生まれ、多摩川をこよなく愛した歌人・作家、岡本かの子。

そのゆかりの地であることから、多摩川を望むこの場所に文学碑が建てられました。

碑の中心となる大型の抽象彫刻「誇り」は、かの子の息子である芸術家・岡本太郎の作品。

築山を思わせる台座は建築家・丹下健三が設計し、1962年(昭和37年)に完成しました。

碑には、かの子の歌「としとしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」が刻まれているほか、亀井勝一郎が岡本かの子について記した文章を、川端康成の書で刻んだ碑も残されています。

宿場町として人々が行き交った二子の歴史と、花街の華やかな記憶。

そして、多摩川を愛した岡本かの子と、その息子・岡本太郎へとつながる芸術の物語。

二子神社は、静かな境内の中に、二子の町が歩んできた歴史と、多摩川沿いに育まれた文化をそっと刻んでいる神社です。


川崎市まちの樹50選・影向寺「サルスベリ」

川崎市まちの樹50選・指定番号15

宮前区野川・影向寺のサルスベリ(百日紅)

深大寺とつながる、影向寺の中世

近年に行われた発掘調査で、影向寺の歴史は7世紀後半まで遡ることが判明しました。

そんな長い歴史を持つ影向寺ですが、古代から中世にかけての詳しい歩みは、残された資料が少なく、今も謎に包まれています。

重要な存在となるのが、現在の東京都調布市にある深大寺です。

平安時代には天台宗の寺院となった影向寺は、中世になると深大寺との関係を深めていったと考えられています。

当時、地方の寺院にとって大きな課題だったのが、寺院を支える有力な庇護者を失うことでした。

影向寺も例外ではなく、次第に寺院の建物や伽藍を維持することが難しくなっていったとみられています。

そこで深大寺とのつながりを生かし、寺院の再興に必要な資金や協力を募る「勧進」を行ったと考えられています。

その成果の一つとされるのが、15世紀ごろに建てられた新しい本堂です。

それまでの金堂を廃し、密教本堂の形式を取り入れた、より小規模な本堂へと姿を変えました。

やがて江戸時代になると、元禄7年(1694年)に現在の薬師堂が再建されます。

つまり影向寺の歴史をたどると、古代の大寺院としての姿から、中世の寺院再興、そして江戸時代の「稲毛薬師」へ――。

その背景には、地域の人々の信仰だけでなく、深大寺との長い結びつきもあったのです。

現在、深大寺と影向寺はそれぞれ別の場所に静かに佇んでいます。

しかし、その二つの寺を結ぶ歴史を知ってから訪れてみると、武蔵国の各地に広がっていった仏教文化と、寺院同士のつながりが、少し違った景色として見えてくるかもしれません。


川崎市まちの樹50選・影向寺イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号14

宮前区野川・影向寺のイチョウ(公孫樹)

時を超えて、古代の記憶に出会う

住宅街を抜け、静かな境内へ足を踏み入れると、そこには現代の街並みとは少し違う、ゆったりとした時間が流れています。

ここに佇むのが、天台宗の古刹、**影向寺(ようごうじ)**です。

「稲毛薬師」とも呼ばれるこの寺の本尊は薬師如来。

「影向」という言葉には、神仏がこの世に姿を現すという意味があります。

その歴史は、なんと1300年以上。

かつては奈良時代の天平12年(740年)、聖武天皇の勅願によって行基が建立したと伝えられていました。

ところが、時代を越えて眠っていた歴史が、発掘調査によって少しずつ明らかになります。

境内から出土した古い瓦などを手がかりに調査が進められた結果、影向寺の創建はさらに古い7世紀後半まで遡ることが判明。

まだ「川崎」という地名もなく、武蔵国と呼ばれていた古代の時代から、この場所には人々の祈りの場があったのです。

古代の姿を伝える「影向石」

境内でひときわ目を引くのが、「影向石」と呼ばれる大きな石。

これは、かつて境内に建っていた三重塔の中心を支えた礎石と考えられています。

「影向石」には、くぼみに水がたまる場所があり、その水で目を洗うと眼病が治るという信仰も生まれました。

その評判は遠くまで伝わり、江戸の名所を紹介した『江戸名所図会』にも「稲毛薬師堂」として登場しています。

江戸の人々も訪れた「稲毛薬師」

時代が江戸へ移ると、影向寺は「稲毛薬師」として広く知られるようになります。

現在残る薬師堂は、元禄7年(1694年)に再建されたもの。

幾度もの修理を受けながらも、その姿を今に伝えています。

街の中に残る、もうひとつの川崎

川崎というと、近代的な街並みや工業地帯を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、少し足を延ばせば、そこには古代から続く歴史が静かに息づいています。

都会の喧騒から少し離れて、静かな境内を歩く。

川崎を訪れたなら、ぜひ一度、影向寺で「時の流れ」を感じてみてはいかがでしょうか。


川崎市まちの樹50選・天満天神社「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号3

幸区・天満天神社の楠(クスノキ)

地名の発祥となった神社

古くからこの地域で市場が立っていたことから「古市場」という地名の発祥となった神社と伝えられ、地域に根差したお社として親しまれています。

天満天神社は、学問の神様である菅原道真を御祭神とする歴史ある神社です。

御祭神: 菅原道真(すがわらみちざね)


川崎市まちの樹50選・細山神明社「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号45

麻生区細山・細山神明社の楠(クスノキ)

多摩丘陵の細長い山々が連なる土地。丘陵の坂に佇む、細山神明社

その地形から「細山(ほそやま)」と呼ばれるようになったこの地域に、静かに鎮座する神社があります。

天照大神を祀る細山神明社です。

境内の鳥居脇には、樹齢数百年ともいわれる大きなクスノキが悠然と立っています。

長い年月を重ねた幹を眺めていると、この土地の歴史をずっと見守ってきたような風格を感じさせます。

神明社は、言い伝えによれば鎌倉時代に祀り始められたとされ、明治6年(1873年)には細山村の村社となりました。

さらに明治44年には、細山村や金程村の周辺にあった稲荷社、杉山社、秋葉社、春日社などが合祀され、地域の信仰を集める神社となっていきました。

「逆さ大門」に秘められた不思議な伝説

全国でも珍しい「逆さ大門」

細山神明社を訪れたなら、ぜひ注目したいのが、神社へ向かう参道の不思議な造りです。

一般的な神社では、鳥居をくぐると坂や石段を上り、社殿へ向かいます。

ところが細山神明社は、その反対。

鳥居が丘の上にあり、そこから坂を下った先に社殿があるのです。

この珍しい造りから、細山神明社は関東に三社あるといわれる「逆さ大門(さかさだいもん)」の神社の一つとして知られています。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも、この参道について「ここより社前までは下り坂なる故、土人これを逆大門とよぶ」と記されています。

不思議な伝説

この不思議な参道には、さらに興味深い伝説が残されています。

かつて神明社の社殿は東向きに建てられていたそうです。

ところがある夜、社殿が一夜にして西向きに変わってしまいました。

村人たちは不思議に思い、元の東向きへ戻しました。

しかし翌朝になると、また西向きに。

そんなことが三度も続いたある夜、村の名主の夢枕に神様が現れ、

「村を守るためには、西の伊勢の方向へ向けよ。大門が逆になってもよい」と告げたといいます。

それ以来、社殿は西を向くことになり、結果として鳥居が丘の上、社殿が坂の下に位置する現在の「逆さ大門」になった。

そんな神秘的な物語が、今もこの地に伝えられています。

絵馬に残る、庶民の願い

細山神明社には、もう一つ、興味深い信仰があります。

古くから、吹き出物や「下の病気」に悩む人々の信仰を集めてきたといわれています。

人々は願いを込めて絵馬を奉納し、藁づとに入れた蛤(はまぐり)を神前に供えました。

現在も拝殿には、近郷から奉納された絵馬が数多く残されています。

そこに描かれているのは、神に祈る女性の姿や蛤。

華やかな歴史の裏側にある、病気から逃れたい、家族が健やかに暮らしてほしい――。

そんな昔の人々の切実な願いが、絵馬を通して今にも伝わってくるようです。

大クスノキが見守る、細山の歴史

境内の入口に立つ、樹齢数百年ともいわれるクスノキ。

「逆さ大門」の参道を行き交う人々を見つめながら、この木もまた、細山の長い歴史を静かに刻んできたのでしょう。

川崎市まちの樹50選・大陸天公園イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号10

高津区二子・大陸天公園のイチョウ(公孫樹)

神社の記憶を残す、二子の公園

川崎市高津区の住宅街に佇む大陸天公園。

砂場やブランコ、すべり台、鉄棒などの遊具がそろい、近隣の子どもたちの遊び場として親しまれている、比較的ゆったりとした公園です。

現在は公園となっていますが、この場所にはかつて神社がありました。

大正時代に二子神社へ合祀されたため神社そのものは姿を消しましたが、園内には神社旧蹟が残され、かつてここが信仰の場であったことを今に伝えています。

園内でひときわ目を引くのが、大きなイチョウの木。

枝葉を大きく広げ、夏には心地よい木陰をつくってくれます。

子どもたちが遊ぶ傍らで、長い年月を生きてきた木が静かに公園を見守っています。

この公園が整備されたのは昭和後期。

第二次ベビーブームによる子どもの増加を背景に、住宅地の中にも子どもたちが安心して遊べる場所が求められました。

今では何気ない街の公園のひとつですが、そこにはかつての神社の記憶と、昭和の子育て世代を支えた地域の歴史が重なっています。

遊具で遊ぶ子どもたち、大きなイチョウの木の木陰、そしてひっそりと残る神社旧蹟。

大陸天公園は、日々の暮らしの中に歴史がそっと息づく、二子らしい小さな憩いの場所です。


川崎市まちの樹50選・橘樹神社イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号11

高津区子母口・橘樹神社のイチョウ(公孫樹)

古代の記憶を今に伝える、子母口の鎮守

川崎市高津区子母口の高台に鎮座する橘樹神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、その妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)を祀る、地域の古い鎮守です。

かつては「立花社」とも呼ばれ、古くから子母口の人々に信仰されてきました。

その歴史を語るうえで欠かせないのが、日本武尊と弟橘媛にまつわる伝説です。

東征の途中、海が荒れたため、弟橘媛は日本武尊を救うため自ら海に身を投じたと伝えられています。

やがて媛の御衣や御冠などがこの地に漂着したという社伝から、ここに祀られるようになったとされています。

近くにある富士見台古墳にも、弟橘媛の「御陵」であるという伝承が残されています。

ただし、この古墳は実際には6世紀頃に築かれたものと考えられ、当時この地域を治めていた有力者の墓とする説もあります。

弟橘媛の御陵とする説を裏付ける確かな史料はなく、古代の歴史と伝説が重なり合う場所として、今も静かに残されています。

さらに興味深いのが、この一帯がかつて橘樹郡の中心地だったと考えられていることです。

神社の近隣には古代の郡役所にあたる「橘樹郡衙」が置かれていたと推定され、橘樹郡の総社であった可能性も指摘されています。

神社の周辺には、縄文時代の「子母口貝塚」、白鳳期の創建と伝わる「影向寺」、その塔頭のひとつだった「能満寺」など、古代から続く歴史の舞台が点在しています。

境内に残る、二つの歴史の碑

橘樹神社の境内には、日本武尊と弟橘媛の伝説を今に伝える、二つの石碑が静かに佇んでいます。

ひとつは、「日本武の松」の歌碑。


高さ約174cm、幅約90cm、厚さ34cmの堂々とした石碑で、表面には幕末から明治にかけて活躍した政治家・山岡鉄太郎(鉄舟)の筆による「日本武の松」の文字が刻まれています。

その左側には、押小路實潔による「社頭松」の一首が刻まれています。

碑の裏側にも、当時の人々の記憶が残されています。中央には「氏子中」の文字が刻まれ、その左右には神官であり神道本局大講義を務めた森義徳と、伊藤壽三郎房壽の和歌が記されています。

伊藤壽三郎房壽は、かつて橘樹神社にあった狛犬の建立にも関わった人物。そのことから、この歌碑も明治10年代前後に建立されたものではないかと考えられています。

もうひとつが、「橘比売命神廟」碑。


弟橘媛を祀る橘樹神社ならではの石碑で、日本武尊と弟橘媛にまつわる古い伝承が、この地で大切に受け継がれてきたことを物語っています。

川崎市まちの樹50選・下有馬不動尊「ヤブツバキ」

下有馬不動尊【藪椿】

川崎市まちの樹50選・指定番号24

宮前区有馬・下有馬不動尊の藪椿(ヤブツバキ)

かつては「水垢離」の場として使われていた

宮前区有馬3丁目にある下有馬不動尊。

創建年代の詳細は分かっていませんが、不動堂の下には滝と滝つぼがあり、かつては冷水を浴びて心身を清める「水垢離」の場として使われていたと伝えられています。

また、鎌倉時代には、背後の森に現在の中原区へ移転した龍宿山金剛院西明寺があったとも伝わります。

静かな住宅地の一角に残る滝と不動尊。

その風景からは、この場所が古くから信仰と深く結びついてきたことが感じられます。