川崎市まちの樹50選・白幡八幡大神「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号21

宮前区平・白幡八幡大神の楠(クスノキ)

稲毛領の人々を見守ってきた、必勝の神

川崎市宮前区平の高台に鎮座する、白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん)。

古くから「稲毛領総鎮守」として地域の人々から篤く信仰されてきた神社で、現在も合格や成功、勝利を願う「必勝の神様」として、多くの人が訪れています。

その歴史は古く、平安時代の武将・源頼義による奥州征伐にまつわる伝承から始まります。

奥州征伐の成功を願った祈り

神社の由緒によれば、康平元年(1058年)、源頼義が奥羽二国の征討将軍として遠征に向かう際、崇敬していた鎌倉の八幡神の加護を願い、ある誓いを立てました。

「無事に使命を果たすことができたなら、鎌倉から奥州へ向かう街道十里(約40km)ごとに八幡祠を一社ずつ建立する」というものです。

その最初の里程にあたったのが、現在の白幡八幡大神の地だったと伝えられています。

頼義は山上に幣帛を捧げ、戦勝を祈願しました。

その願いが神に通じたのか、無事に使命を果たして帰還すると、康平4年(1061年)にこの地へ八幡神を祀ったとされています。

現在「必勝の神様」として信仰される背景には、こうした戦勝祈願の物語があるのです。

源頼朝による再建

その後、戦乱によって国内が乱れると、神社も荒廃したと伝えられています。

鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、祖先の事績を調べ、建久3年(1192年)に神社を再建。

さらに鎌倉の八幡宮から御霊分けを受け、「源栄山八幡宮」と称するようになったとされています。

この頃、稲毛三郎重成が桝杉山に居を構え、この地域の領主となりました。

そして白幡八幡大神は、稲毛領57か村の総鎮守として崇敬されるようになったと伝えられています。

現在も社殿に掲げられている額には、「稲毛惣社」の文字が残されています。

徳川家康から70石の朱印地

江戸時代に入ると、白幡八幡大神はさらに大きな庇護を受けることになります。

天正19年(1591年)、徳川家康から朱印地70石を寄進されたと伝えられています。

稲毛領の総鎮守として、地域の人々の信仰を集めてきた神社が、江戸時代にも重要な社として扱われていたことがうかがえます。

本殿に鎮座する御神像は、享保12年(1727年)に奉彫されたものと伝えられています。

「白幡八幡大神」へ

明治6年(1873年)には郷社に列せられ、この頃から「白幡大明神」と称されるようになりました。

現在の御祭神は、応神天皇・玉依姫命・神功皇后の三柱。

現在の社殿は、昭和48年(1973年)10月に再建されたものです。

長い歴史の中で社殿の姿は変わっても、地域の鎮守として人々が寄せてきた信仰は、今も受け継がれています。

江戸城でも舞われた「禰宜舞」

白幡八幡大神には、もう一つ大切な伝統が残されています。

それが、毎年7月と9月の第3日曜日に奉納される「禰宜舞(ねぎまい)」です。

川崎市の市重要習俗技芸に指定されている伝統芸能で、江戸時代初期には正月3日に江戸城へ上り、将軍の前で舞ったとも伝えられています。

現在は夏祭や例大祭の際に、氏子の家内安全などを願って奉納されています。

舞は素面による「四方祓」の舞から始まり、その後、面や衣裳を替えながら五座の神々の舞を行います。

長い年月を越えて、今も地域に受け継がれている貴重な伝統です。