川崎市まちの樹50選・ 泉福寺「サルスベリ」

川崎市まちの樹50選・指定番号17

宮前区馬絹・泉福寺の百日紅(サルスベリ)

静かに佇む、天台宗の寺院泉福寺

寺の創建について詳しいことは分かっていませんが、過去帳によれば、義天法印によって開基されたと伝えられています。

その後、智賢法印によって中興され、現在の住職で30世を数えます。

本堂は1847年(弘化4年)、老朽化に伴って建て替えられたもの。

江戸時代から続く建物が、現在も境内の落ち着いた風景を形づくっています。

境内には樹齢約450年とされるサルスベリをはじめ、四季折々の草花が彩りを添えています。

春の芽吹きから夏の緑、秋の紅葉、そして冬の静けさまで、訪れる季節によって異なる表情を楽しめるのも泉福寺の魅力です。

江戸の賑わいを今に伝える泉福寺の絵馬

泉福寺には、江戸時代末の馬絹の風景を今に伝える、貴重な板面着色絵馬が秘蔵されています。

1857年(安政4年)制作の「泉福寺境内相撲図」

泉福寺の境内で行われた奉納相撲の様子が生き生きと描かれています。

当時の泉福寺は、信仰の場であると同時に、人々が集い、祭りや行事を楽しむ地域の交流の場でもあったのでしょう。

「泉福寺境内相撲図」は、川崎市重要歴史記念物に指定されています。


川崎市まちの樹50選・ 泉福寺「イチョウ」

川崎市まちの樹50選・指定番号16

宮前区馬絹・泉福寺の公孫樹(イチョウ)

川崎市宮前区馬絹に静かに佇む、天台宗の寺院泉福寺。

境内へ足を踏み入れると、まず目を奪われるのが、樹齢800年とも伝えられる大イチョウです。

長い年月を生きてきたその姿は圧倒的な存在感を放ち、まるで寺の歴史そのものを物語るかのように、訪れる人を迎えてくれます。

花を育て、花を弔う土地の記憶

川崎市宮前区馬絹では、東京や横浜といった大都市に近い立地を生かし、古くから花卉(かき)栽培が盛んに行われてきました。

なかでも特徴的なのが、梅・桃・桜など枝物の栽培です。

出荷する時期に合わせて花を咲かせるため、かつては「室(むろ)」と呼ばれる貯蔵用の穴に枝を保管し、開花時期を調整する工夫が行われてきました。

また、花芽を傷めたり落としたりしないよう枝を束ねる「枝折(しおり)」という技術も、現在まで受け継がれています。

こうした馬絹独自の花づくりは、単なる農業技術ではありません。

都市近郊という土地の条件を生かしながら、長い年月をかけて培われてきた地域の生業そのものなのです。

そして、馬絹には花を「育てる」だけでなく、花に「感謝する」文化も残されています。

毎年8月17日には、花への感謝と、その霊を慰めるための花供養祭が行われています。

2018年には、節目となる第100回を迎えました。

泉福寺の境内に建つ花供養塔も、この地域の花卉栽培の歴史を伝える大切な存在です。

塔は、大正10年(1921年)に設立された馬絹花卉生産組合によって、1963年(昭和38年)に建立されました。

華やかな花を生み出してきた馬絹の農家たち。

その陰には、季節や天候と向き合い、枝一本、花芽ひとつを大切に扱ってきた人々の営みがありました。

現在では住宅地が広がる馬絹ですが、泉福寺を訪ね、境内の大イチョウや花供養塔を眺めていると、かつてこの地域に広がっていた花畑の風景が、少しずつ浮かび上がってくるようです。

江戸の賑わいを今に伝える泉福寺の絵馬

泉福寺には、江戸時代末の馬絹の風景を今に伝える、貴重な板面着色絵馬が秘蔵されています。

1854年(嘉永7年)に制作された「泉福寺薬師会図」。

絵の中には、境内にそびえる大イチョウと薬師如来像、そして大勢の参拝者で賑わう様子が描かれています。

当時の泉福寺は、信仰の場であると同時に、人々が集い、祭りや行事を楽しむ地域の交流の場でもあったのでしょう。

「泉福寺薬師会図」は、川崎市重要歴史記念物に指定されています。

川崎市まちの樹50選・白幡八幡大神「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号21

宮前区平・白幡八幡大神の楠(クスノキ)

稲毛領の人々を見守ってきた、必勝の神

川崎市宮前区平の高台に鎮座する、白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん)。

古くから「稲毛領総鎮守」として地域の人々から篤く信仰されてきた神社で、現在も合格や成功、勝利を願う「必勝の神様」として、多くの人が訪れています。

その歴史は古く、平安時代の武将・源頼義による奥州征伐にまつわる伝承から始まります。

奥州征伐の成功を願った祈り

神社の由緒によれば、康平元年(1058年)、源頼義が奥羽二国の征討将軍として遠征に向かう際、崇敬していた鎌倉の八幡神の加護を願い、ある誓いを立てました。

「無事に使命を果たすことができたなら、鎌倉から奥州へ向かう街道十里(約40km)ごとに八幡祠を一社ずつ建立する」というものです。

その最初の里程にあたったのが、現在の白幡八幡大神の地だったと伝えられています。

頼義は山上に幣帛を捧げ、戦勝を祈願しました。

その願いが神に通じたのか、無事に使命を果たして帰還すると、康平4年(1061年)にこの地へ八幡神を祀ったとされています。

現在「必勝の神様」として信仰される背景には、こうした戦勝祈願の物語があるのです。

源頼朝による再建

その後、戦乱によって国内が乱れると、神社も荒廃したと伝えられています。

鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、祖先の事績を調べ、建久3年(1192年)に神社を再建。

さらに鎌倉の八幡宮から御霊分けを受け、「源栄山八幡宮」と称するようになったとされています。

この頃、稲毛三郎重成が桝杉山に居を構え、この地域の領主となりました。

そして白幡八幡大神は、稲毛領57か村の総鎮守として崇敬されるようになったと伝えられています。

現在も社殿に掲げられている額には、「稲毛惣社」の文字が残されています。

徳川家康から70石の朱印地

江戸時代に入ると、白幡八幡大神はさらに大きな庇護を受けることになります。

天正19年(1591年)、徳川家康から朱印地70石を寄進されたと伝えられています。

稲毛領の総鎮守として、地域の人々の信仰を集めてきた神社が、江戸時代にも重要な社として扱われていたことがうかがえます。

本殿に鎮座する御神像は、享保12年(1727年)に奉彫されたものと伝えられています。

「白幡八幡大神」へ

明治6年(1873年)には郷社に列せられ、この頃から「白幡大明神」と称されるようになりました。

現在の御祭神は、応神天皇・玉依姫命・神功皇后の三柱。

現在の社殿は、昭和48年(1973年)10月に再建されたものです。

長い歴史の中で社殿の姿は変わっても、地域の鎮守として人々が寄せてきた信仰は、今も受け継がれています。

江戸城でも舞われた「禰宜舞」

白幡八幡大神には、もう一つ大切な伝統が残されています。

それが、毎年7月と9月の第3日曜日に奉納される「禰宜舞(ねぎまい)」です。

川崎市の市重要習俗技芸に指定されている伝統芸能で、江戸時代初期には正月3日に江戸城へ上り、将軍の前で舞ったとも伝えられています。

現在は夏祭や例大祭の際に、氏子の家内安全などを願って奉納されています。

舞は素面による「四方祓」の舞から始まり、その後、面や衣裳を替えながら五座の神々の舞を行います。

長い年月を越えて、今も地域に受け継がれている貴重な伝統です。


川崎市まちの樹50選・影向寺「サルスベリ」

川崎市まちの樹50選・指定番号15

宮前区野川・影向寺のサルスベリ(百日紅)

深大寺とつながる、影向寺の中世

近年に行われた発掘調査で、影向寺の歴史は7世紀後半まで遡ることが判明しました。

そんな長い歴史を持つ影向寺ですが、古代から中世にかけての詳しい歩みは、残された資料が少なく、今も謎に包まれています。

重要な存在となるのが、現在の東京都調布市にある深大寺です。

平安時代には天台宗の寺院となった影向寺は、中世になると深大寺との関係を深めていったと考えられています。

当時、地方の寺院にとって大きな課題だったのが、寺院を支える有力な庇護者を失うことでした。

影向寺も例外ではなく、次第に寺院の建物や伽藍を維持することが難しくなっていったとみられています。

そこで深大寺とのつながりを生かし、寺院の再興に必要な資金や協力を募る「勧進」を行ったと考えられています。

その成果の一つとされるのが、15世紀ごろに建てられた新しい本堂です。

それまでの金堂を廃し、密教本堂の形式を取り入れた、より小規模な本堂へと姿を変えました。

やがて江戸時代になると、元禄7年(1694年)に現在の薬師堂が再建されます。

つまり影向寺の歴史をたどると、古代の大寺院としての姿から、中世の寺院再興、そして江戸時代の「稲毛薬師」へ――。

その背景には、地域の人々の信仰だけでなく、深大寺との長い結びつきもあったのです。

現在、深大寺と影向寺はそれぞれ別の場所に静かに佇んでいます。

しかし、その二つの寺を結ぶ歴史を知ってから訪れてみると、武蔵国の各地に広がっていった仏教文化と、寺院同士のつながりが、少し違った景色として見えてくるかもしれません。


川崎市まちの樹50選・影向寺イチョウ(公孫樹)

川崎市まちの樹50選・指定番号14

宮前区野川・影向寺のイチョウ(公孫樹)

時を超えて、古代の記憶に出会う

住宅街を抜け、静かな境内へ足を踏み入れると、そこには現代の街並みとは少し違う、ゆったりとした時間が流れています。

ここに佇むのが、天台宗の古刹、**影向寺(ようごうじ)**です。

「稲毛薬師」とも呼ばれるこの寺の本尊は薬師如来。

「影向」という言葉には、神仏がこの世に姿を現すという意味があります。

その歴史は、なんと1300年以上。

かつては奈良時代の天平12年(740年)、聖武天皇の勅願によって行基が建立したと伝えられていました。

ところが、時代を越えて眠っていた歴史が、発掘調査によって少しずつ明らかになります。

境内から出土した古い瓦などを手がかりに調査が進められた結果、影向寺の創建はさらに古い7世紀後半まで遡ることが判明。

まだ「川崎」という地名もなく、武蔵国と呼ばれていた古代の時代から、この場所には人々の祈りの場があったのです。

古代の姿を伝える「影向石」

境内でひときわ目を引くのが、「影向石」と呼ばれる大きな石。

これは、かつて境内に建っていた三重塔の中心を支えた礎石と考えられています。

「影向石」には、くぼみに水がたまる場所があり、その水で目を洗うと眼病が治るという信仰も生まれました。

その評判は遠くまで伝わり、江戸の名所を紹介した『江戸名所図会』にも「稲毛薬師堂」として登場しています。

江戸の人々も訪れた「稲毛薬師」

時代が江戸へ移ると、影向寺は「稲毛薬師」として広く知られるようになります。

現在残る薬師堂は、元禄7年(1694年)に再建されたもの。

幾度もの修理を受けながらも、その姿を今に伝えています。

街の中に残る、もうひとつの川崎

川崎というと、近代的な街並みや工業地帯を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、少し足を延ばせば、そこには古代から続く歴史が静かに息づいています。

都会の喧騒から少し離れて、静かな境内を歩く。

川崎を訪れたなら、ぜひ一度、影向寺で「時の流れ」を感じてみてはいかがでしょうか。


川崎市まちの樹50選・下有馬不動尊「ヤブツバキ」

下有馬不動尊【藪椿】

川崎市まちの樹50選・指定番号24

宮前区有馬・下有馬不動尊の藪椿(ヤブツバキ)

平を見守る、一本の欅

宮前区有馬3丁目にある下有馬不動尊。

創建年代の詳細は分かっていませんが、不動堂の下には滝と滝つぼがあり、かつては冷水を浴びて心身を清める「水垢離」の場として使われていたと伝えられています。

また、鎌倉時代には、背後の森に現在の中原区へ移転した龍宿山金剛院西明寺があったとも伝わります。

静かな住宅地の一角に残る滝と不動尊。

その風景からは、この場所が古くから信仰と深く結びついてきたことが感じられます。


川崎市まちの樹50選・ 小台「イロハカエデ」

川崎市まちの樹50選・指定番号19

宮前区小台・伊呂波楓(イロハカエデ)

宮前平駅前を通る尻手黒川道路から、ほんの一歩奥へ入ると、そこには風情あふれる竹林が広がっています。

車や人の行き交う街の喧騒から少し離れるだけで、空気がふっと静かになり、まるでこの一帯だけ時間がゆっくりと流れているような、そんな錯覚を覚えます。

竹の葉を揺らす風の音に耳を澄ませながら歩けば、都会の中にいることを忘れてしまいそうです。

そして秋になると、この場所をひときわ美しく彩るのが、見事な紅葉を見せるイロハカエデ。

鮮やかに色づいた葉は竹林の緑と美しいコントラストを描き、道行く人の目を楽しませてくれます。

駅のすぐ近くにありながら、昔ながらの自然の面影を感じさせてくれる都会のオアシスです。

季節の移ろいを身近に感じながら、ほんの少し足を止めてみたくなる、そんな静かな風景がここには残されています。


川崎市まちの樹50選・平1丁目「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号22

宮前区平・平1丁目の欅(ケヤキ)

平を見守る、一本の欅

多摩丘陵に建ち並ぶマンション群を背景に、平一丁目交差点を見下ろす小高い場所に、一本の欅が立っています。

近くを流れる平瀬川から少し離れると、坂道が続く宮前区平。

この「平」という地名ですが、一説によると古くこの地を領した「葛山平殿」という人物に由来するという説があり、川崎市のウェブサイトにも、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に「平」の名が記されているとありました。

一方で、「平(たいら)」は、なだらかな傾斜地を表す言葉でもあり、丘陵と平瀬川がつくる穏やかな地形から名付けられたという説もあります。

丘と坂、そして平瀬川が織りなす平の風景。

その景色を高台から見渡すこの欅を眺めていると、土地の姿そのものが「平」という地名につながったよう気がします。


川崎市まちの樹50選・有馬4丁目「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号23

宮前区有馬・有馬4丁目の欅(ケヤキ)

有馬の緑に佇む、一本の欅

有馬地区には、今も公園や畑などの緑が残り、住宅地の中にも、どこか昔ながらの風景を感じることができます。

その一角に、悠然と立っている一本の欅があります。

民家の庭先に根を下ろし、長い年月を過ごしてきたと思われるその姿は、周囲の住宅とは対照的に、どこか堂々とした存在感を漂わせています。

すぐ隣には、メタセコイヤの大木がシンボルになっている「有馬中央公園」。

少し足を延ばせば、樫の大木をシンボルとする「有馬かしの木公園」もあります。


こうして見てみると、有馬にはそれぞれの場所で地域の風景をつくってきた、大きな木が残されています。

しかし、民家の庭先という暮らしのすぐそばで、これほど堂々とした姿を保っていることに、この木ならではの存在感があります。

太い幹から伸びる枝は大きく空へ広がり、住宅が並ぶ街並みの中で、まるでそこだけ時間の流れが違うかのよう。

長い年月を重ねてきた欅だからこそ生まれる、幹の力強さ、枝ぶりの雄大さ。そして、何気ない住宅地の風景を一変させるほどの迫力があります。

公園のシンボルとはまた違う、生活の風景に根を下ろした大樹です。

道を歩いていてふと目に入ったとき、その大きさに思わず足を止めてしまう。

そんな「街の中の巨木」として、この欅は今日も有馬の風景を形づくっています。