川崎市まちの樹50選・指定番号35
多摩区枡形・生田緑地のエンジュ(槐)
以前にご紹介したエンジュの木ですが、根元の腐朽が進み2026年3月に伐採されてしまったようです。
以前にご紹介したエンジュの木ですが、根元の腐朽が進み2026年3月に伐採されてしまったようです。
東生田自然遊歩道を歩いていると、道沿いに立つ一本のウワミズザクラが目に留まります。
よく見ると、この木は一本ではないようです。
2本の幹が寄り添うように伸び、そのまま重なり合っているのです。
枝も複雑に絡み合い、どちらの幹から伸びた枝なのか、見分けるのが難しいほど。
長い年月をかけて2本の木が隣り合いながら成長してきた姿には、どこか不思議な一体感があります。
未だ実物を見た事がないのですが、ウワミズザクラは、一般的なサクラとは少し違った花を咲かせるそうです。
春になると、枝先から白い花が房状に伸び、緑の中に浮かび上がるように咲くとか。
東生田自然遊歩道周辺は、川崎市が紹介する「野鳥と古寺を訪ねる」散策コースの一部。東生田緑地などの豊かな自然に囲まれた道です。
普段歩いていると見過ごしてしまいそうな木ですが、花の季節にはきっと、この2本の幹がつくり出す独特の姿がさらに印象的に見えることでしょう。
例年4月中旬ごろに開花するとのこと。
今回は花のない時期に訪れましたが、いつか花の咲く頃にもう一度、このウワミズザクラを訪れてみたいと思います。
川崎市多摩区登戸にある丸山教本庁の境内には、ひときわ大きなクスノキが立っています。
その昔、登戸を通る「江戸道」と呼ばれた津久井道からも、その姿を望むことができたといいます。
道を行き交う人々にとって、この大きなクスノキは遠くからでも目に入る存在。
いつしか地域の目印となり、登戸の風景の一部として親しまれてきました。
長い年月を重ね、季節ごとに葉を茂らせながら、境内を訪れる人々を静かに迎えてきたクスノキ。
街の姿が変わり、道を行き交う人々の暮らしが変わっても、変わらぬ場所に立ち続けるその姿には、登戸の昔と今をつなぐ「街の記憶」が感じられます。
多摩区登戸にある丸山教本庁。
その境内には、樹齢約120年と伝えられる藤の古木があります。
「丸山の六尺藤」と呼ばれ、地域の人々に親しまれてきたこの藤。
毎年、花の季節になると、藤棚いっぱいに紫色の花房を垂らし、訪れる人の目を楽しませてくれます。
長い年月を重ねてきた藤は、まるで境内の歴史を静かに見守ってきたかのよう。風に揺れる花房からは、やわらかな香りが漂い、境内全体が穏やかな春の空気に包まれます。
その美しさをひと目見ようと、遠方から訪れる人もいるという「丸山の六尺藤」。
登戸の街の一角で、毎年変わらぬように花を咲かせながら、季節の訪れとともに、長い年月の記憶を今に伝えています。
古くからこの地の人々に「登戸稲荷社」として親しまれ、五穀豊穣や商売繁盛、家内安全の神様として厚い信仰を集めてきました。
長い年月を経た社殿を眺めていると、まず目を引くのが、外壁を彩る精巧な漆喰彫刻です。
漆喰を盛り上げ、鏝(こて)を使って立体的に仕上げる「鏝絵(こてえ)」と呼ばれる技法で、龍や狐などが描かれています。江戸時代の左官職人たちが、建物の壁を単なる外壁ではなく、一つの作品へと仕立て上げたものです。
拝殿にも見どころは多く、木鼻に巻き付く迫力ある龍や、扉に施された獅子の透かし彫りなど、細部にまで職人の技が凝縮されています。
側面には三国志の武将・高覧、脇障子には八岐大蛇退治の神話や猿の姿なども刻まれ、それぞれの彫刻が物語を持っています。
かつての社殿は茅葺きでしたが、昭和28年に瓦葺きへと改められました。時代とともに姿を変えながらも、江戸時代の職人たちが残した技は、今も社殿の随所に息づいています。
多摩川の洪水や風雨、そして関東大震災など幾度もの災害をくぐり抜けてきた登戸稲荷社。
そこに残されているのは、ただ古い建物だけではありません。
漆喰の壁に刻まれた龍や狐、木々の間に佇む社殿。その一つひとつから、信仰を守ってきた地域の人々と、それに応えようと腕を振るった職人たちの思いが伝わってきます。
登戸稲荷社は、登戸の歴史を伝える神社であると同時に、江戸の職人文化を今に伝える貴重な場所でもあります。
川崎市多摩区登戸に鎮座する登戸稲荷社。古くからこの地の人々に「登戸稲荷社」として親しまれ、五穀豊穣や商売繁盛、家内安全の神様として厚い信仰を集めてきました。
御祭神は、穀物や食物を司る宇賀魂大神(うかのみたまのおおかみ)。
「宇迦魂大神」や「倉稲魂命」とも表記され、一般に稲荷神として知られる神様です。
その起源ははっきりしていませんが、戦国時代、武田家の家臣だった吉沢兵庫という武士が登戸の地に帰農し、邸内の鎮守として祀ったことが始まりと伝えられています。
その後、登戸村小名東耕地の鎮守として地域の人々に大切にされてきました。
しかし、この神社もまた、多摩川とともに歩んできた歴史があります。
安土桃山時代の天正18年(1590)には、多摩川の大洪水によって社殿が流失。その後、旧屋敷の敷地を譲り受けて再建されました。さらに江戸時代後期には嵐によって社殿が損傷し、再び修復・再建されています。
現在の社殿は嘉永6年(1853)に再建されたもの。
小田急線・読売ランド前駅の北口から津久井道を西へ進むこと約200メートル。
街の喧騒から少し離れた場所に、五反田川を渡る小さな橋があります。
その名は、「御杓文字橋(おしゃもじばし)」
橋のたもとに目を向けると、川辺の風景に溶け込むように一本の大きな栴檀(センダン)が立っています。
この栴檀は、植えられた庭木ではなく、橋のたもとに自生したもの。
春から初夏にかけて淡い紫色の小さな花を咲かせ、夏には緑の葉を茂らせます。
そして秋になると葉を落とし、黄色い実を枝いっぱいにつける姿も印象的です。
駅からわずか数分。
車や人が行き交う津久井道のすぐそばにありながら、五反田川の流れとともに静かに季節を重ねています。
何気なく通り過ぎてしまいそうな小さな橋と一本の木。
けれど、足を止めて見上げてみれば、そこには地域の風景を長い年月にわたって見守ってきた一本の栴檀の物語があります。
読売ランド前駅周辺を散策する際には、御杓文字橋まで少し足を延ばしてみるのもおすすめです。
川のせせらぎに耳を傾けながら、橋のたもとに佇む栴檀を眺める――。
そんな小さな発見が、いつもの街歩きを少しだけ特別なものにしてくれます。
川崎市多摩区にある永池山長念寺。
その始まりは、大永2年(1522)に法専坊がこの地に草庵を築いたことに始まると伝えられています。
もともとは真言宗の寺院で、山号も当時の年号にちなみ「大永山」と称していました。
その後、文禄元年(1592)に、近くにあった三日月湖にちなみ「永池山」へと改められたといいます。
長念寺の歴史を語るうえで欠かせないのが、秀月禅尼という女性です。
秀月禅尼は、徳川家光に仕えた菅の領主・中根壱岐守平十郎正朝の母。
長念寺を深く信仰し、その庇護によって寺は大きく発展していきました。
徳川家によって本願寺が東西に分立された際、長念寺はいったん東本願寺に属することになります。
慶安2年(1649)、秀月禅尼の一周忌には、子の正朝によって本堂や山門、庫裏などが寄進されたと伝えられています。
しかし、門徒たちの思いは少し違っていました。
かつて大坂冬の陣・夏の陣の際には、門徒衆が自らの意思で豊臣方に加勢したという伝承も残されています。
時代の大きな流れの中にあっても、門徒たちは自分たちの信仰や寺とのつながりを大切にしていたのでしょう。
そうした門徒衆の強い願いを受け、元禄14年(1701)には西本願寺へ帰参。
現在まで浄土真宗本願寺派の寺院として続いています。
本堂、山門、庫裏はいずれも川崎市重要歴史記念物に指定され、江戸時代の寺院建築と境内の姿を今に伝えています。
本堂は文政7年(1824)に上棟され、庫裏もほぼ同じ時期に再建されたと考えられています。
山門は嘉永7年(1854)に上棟。
木造阿弥陀如来立像を本尊とする本堂を中心に、山門、庫裏が整然と配置された境内は、近世寺院の雰囲気を今に残しています。
登戸の街が大きく姿を変えていくなか、江戸の面影を残す建物と境内。
その静かな佇まいは、500年近くにわたる地域の歴史を、今にそっと伝えています。