川崎市まちの樹50選・ 泉福寺「イチョウ」

川崎市まちの樹50選・指定番号16

宮前区馬絹・泉福寺の公孫樹(イチョウ)

川崎市宮前区馬絹に静かに佇む、天台宗の寺院泉福寺。

境内へ足を踏み入れると、まず目を奪われるのが、樹齢800年とも伝えられる大イチョウです。

長い年月を生きてきたその姿は圧倒的な存在感を放ち、まるで寺の歴史そのものを物語るかのように、訪れる人を迎えてくれます。

花を育て、花を弔う土地の記憶

川崎市宮前区馬絹では、東京や横浜といった大都市に近い立地を生かし、古くから花卉(かき)栽培が盛んに行われてきました。

なかでも特徴的なのが、梅・桃・桜など枝物の栽培です。

出荷する時期に合わせて花を咲かせるため、かつては「室(むろ)」と呼ばれる貯蔵用の穴に枝を保管し、開花時期を調整する工夫が行われてきました。

また、花芽を傷めたり落としたりしないよう枝を束ねる「枝折(しおり)」という技術も、現在まで受け継がれています。

こうした馬絹独自の花づくりは、単なる農業技術ではありません。

都市近郊という土地の条件を生かしながら、長い年月をかけて培われてきた地域の生業そのものなのです。

そして、馬絹には花を「育てる」だけでなく、花に「感謝する」文化も残されています。

毎年8月17日には、花への感謝と、その霊を慰めるための花供養祭が行われています。

2018年には、節目となる第100回を迎えました。

泉福寺の境内に建つ花供養塔も、この地域の花卉栽培の歴史を伝える大切な存在です。

塔は、大正10年(1921年)に設立された馬絹花卉生産組合によって、1963年(昭和38年)に建立されました。

華やかな花を生み出してきた馬絹の農家たち。

その陰には、季節や天候と向き合い、枝一本、花芽ひとつを大切に扱ってきた人々の営みがありました。

現在では住宅地が広がる馬絹ですが、泉福寺を訪ね、境内の大イチョウや花供養塔を眺めていると、かつてこの地域に広がっていた花畑の風景が、少しずつ浮かび上がってくるようです。

江戸の賑わいを今に伝える泉福寺の絵馬

泉福寺には、江戸時代末の馬絹の風景を今に伝える、貴重な板面着色絵馬が秘蔵されています。

1854年(嘉永7年)に制作された「泉福寺薬師会図」。

絵の中には、境内にそびえる大イチョウと薬師如来像、そして大勢の参拝者で賑わう様子が描かれています。

当時の泉福寺は、信仰の場であると同時に、人々が集い、祭りや行事を楽しむ地域の交流の場でもあったのでしょう。

「泉福寺薬師会図」は、川崎市重要歴史記念物に指定されています。

稲田公園せせらぎ清掃

公園管理

稲田公園にはせせらぎ、児童プール、少年野球場などの施設があり、春には桜が咲き誇る市民の憩いの場となっています。

せせらぎに堆積した落ち葉などを定期的に清掃しています。


多くの人が気持ちよく利用できる景観を保つ

公園は、地域の人々が共有する場所です。

さまざまな利用者の視点から植栽を考える必要があります。

伸びすぎた枝葉を整え、雑草を管理し、枯れた植物や不要な枝を整理する。

そうした一つひとつの作業が、公園全体の印象につながります。


きれいに手入れされたせせらぎは、訪れた人に「また来たい」と思ってもらえるような、気持ちのよい空間づくりにもつながります。


川崎マリエン展望室

川崎港臨港地区・東扇島のアイコン「川崎マリエン」

次の打ち合わせまで時間があったのでタワー棟10階の展望室を訪れてみることにしました。

ロビーに置かれていたパンフレットによると、市民と川崎港の交流を深めるコミュニティー施設として1992年2月に建設され、正式名称は「川崎市港湾振興会館」というそうですが、「より親しみやすく分かりやすい愛称」と一般公募を行い、マリン(海)とエントランス(玄関)を組み合わせた造語「マリエン」が選ばれたそうです。

交流棟には会議室や研修室など、タワー棟には体育館や展望室があり、敷地にはバーベキューができる公園、テニスコート、ビーチバレーコートなど市民憩いの施設となっています。

タワー棟10階の展望室からは360°の景色を眺める事ができます。

東京湾、海ほたる、東京タワー、東京ゲートブリッジ、東京スカイツリー、羽田空港、臨海部の工場地帯など確認できました。

大使館御用達シェフの冷凍極上パスタ・リゾット

展望室の一角に電子レンジが置かれていて、「大使館御用達シェフの冷凍極上パスタ・リゾット交流棟一階で絶賛発売中」とありました。

ワンコインとは思えない本格的な味でした。


高津区向ヶ丘・しばられ松(マツ)

川崎市まちの樹50選・番外編

高津区向ヶ丘のしばられ松(聖松)

地元に伝わる、子どもの病気を治す松

昔、相模から訪れた六部(巡礼者)が百日咳にかかり、この地で亡くなり、その跡に植えられた松が「聖(ひじり)松」と呼ばれるようになりました。

この松はとても寂しがり屋で、ときどき仲間の松のところへ遊びに出かけてしまったそうです。

伝承に「枝葉が相模の国の方向を向いて茂っていた」とあるので、相模の国へ遊びに行っていたのかもしれません。

困ったことに、この松が飛んで遊びに出かける際の風で、子どもたちが風邪(百日咳?)をひいてしまったそうです。

そこで村人たちはどこにも行かないようにと松の根元を縄で縛ったそうです。

すると、子どもたちの百日咳が治まったことから、いつしかこの松は「しばられ松」と呼ばれるようになり、地域の子供が病気になると、素縄を左に編んで松に結び願をかけ、病気が治ると、今度は右縄を編んで幹に結び願ほどきをする風習が生まれたそうです。

明治二十年ごろ落雷にあい、現在の姿になってしまったようです。

今も残る「しばられ松」という呼び名には、この土地で暮らしてきた人々の素朴な信仰と、子どもたちの健康を願う思いが込められています。


川崎市まちの樹50選・白幡八幡大神「クスノキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号21

宮前区平・白幡八幡大神の楠(クスノキ)

稲毛領の人々を見守ってきた、必勝の神

川崎市宮前区平の高台に鎮座する、白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん)。

古くから「稲毛領総鎮守」として地域の人々から篤く信仰されてきた神社で、現在も合格や成功、勝利を願う「必勝の神様」として、多くの人が訪れています。

その歴史は古く、平安時代の武将・源頼義による奥州征伐にまつわる伝承から始まります。

奥州征伐の成功を願った祈り

神社の由緒によれば、康平元年(1058年)、源頼義が奥羽二国の征討将軍として遠征に向かう際、崇敬していた鎌倉の八幡神の加護を願い、ある誓いを立てました。

「無事に使命を果たすことができたなら、鎌倉から奥州へ向かう街道十里(約40km)ごとに八幡祠を一社ずつ建立する」というものです。

その最初の里程にあたったのが、現在の白幡八幡大神の地だったと伝えられています。

頼義は山上に幣帛を捧げ、戦勝を祈願しました。

その願いが神に通じたのか、無事に使命を果たして帰還すると、康平4年(1061年)にこの地へ八幡神を祀ったとされています。

現在「必勝の神様」として信仰される背景には、こうした戦勝祈願の物語があるのです。

源頼朝による再建

その後、戦乱によって国内が乱れると、神社も荒廃したと伝えられています。

鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、祖先の事績を調べ、建久3年(1192年)に神社を再建。

さらに鎌倉の八幡宮から御霊分けを受け、「源栄山八幡宮」と称するようになったとされています。

この頃、稲毛三郎重成が桝杉山に居を構え、この地域の領主となりました。

そして白幡八幡大神は、稲毛領57か村の総鎮守として崇敬されるようになったと伝えられています。

現在も社殿に掲げられている額には、「稲毛惣社」の文字が残されています。

徳川家康から70石の朱印地

江戸時代に入ると、白幡八幡大神はさらに大きな庇護を受けることになります。

天正19年(1591年)、徳川家康から朱印地70石を寄進されたと伝えられています。

稲毛領の総鎮守として、地域の人々の信仰を集めてきた神社が、江戸時代にも重要な社として扱われていたことがうかがえます。

本殿に鎮座する御神像は、享保12年(1727年)に奉彫されたものと伝えられています。

「白幡八幡大神」へ

明治6年(1873年)には郷社に列せられ、この頃から「白幡大明神」と称されるようになりました。

現在の御祭神は、応神天皇・玉依姫命・神功皇后の三柱。

現在の社殿は、昭和48年(1973年)10月に再建されたものです。

長い歴史の中で社殿の姿は変わっても、地域の鎮守として人々が寄せてきた信仰は、今も受け継がれています。

江戸城でも舞われた「禰宜舞」

白幡八幡大神には、もう一つ大切な伝統が残されています。

それが、毎年7月と9月の第3日曜日に奉納される「禰宜舞(ねぎまい)」です。

川崎市の市重要習俗技芸に指定されている伝統芸能で、江戸時代初期には正月3日に江戸城へ上り、将軍の前で舞ったとも伝えられています。

現在は夏祭や例大祭の際に、氏子の家内安全などを願って奉納されています。

舞は素面による「四方祓」の舞から始まり、その後、面や衣裳を替えながら五座の神々の舞を行います。

長い年月を越えて、今も地域に受け継がれている貴重な伝統です。


川崎市役所の展望ロビー&スカイデッキ

川崎市役所展望フロア

申請手続きなど業務で川崎市役所を訪れる機会は多いのですが、知人から話を聞くまで展望フロアの存在を知りませんでした。

申請手続きで訪れたついでに、本庁舎25階の展望ロビー&スカイデッキを足早に見学しました。

あたらしくなった川崎市役所本庁舎

この日はお休み?川崎市議会議場

川崎市役所本庁舎25階展望ロビー

平日の昼間という事で、想像していたよりも来場者は少なかったです。

次の仕事があるので足早に見学しましたが、時間が許せばゆっくりと景色を眺める事ができそうです。

展望ロビーからは主に東京方面の景色を一望できます。

眼下に広がる多摩川六郷土手の遥か向こうに東京タワーやスカイツリーを見つけました。

「屋内なので安心して眺望を楽しむ事ができます」

川崎市役所本庁舎25階スカイデッキ

展望ロビーの自動ガラス扉を抜けると、スカイデッキに出る事ができます。

上部に屋根がなく、高層ビル特有の風が吹いていて屋上気分が味わえます。

東側は工場夜景で人気の臨海部や羽田空港など、西側は武蔵小杉方面、南側は横浜方面の景色を眺望できます。

「高いところが苦手な人には少々厳しいかもしれません」

展望ロビー&スカイデッキからの眺望

旧本庁舎の一部を創建当時の姿で復元した復元棟

新しくなった川崎市役所は、25階建ての高層棟と旧本庁舎の一部を創建当時の姿で復元した復元棟で構成されています。

復元棟には、旧本庁舎の歴史紹介映像や建替えの映像等が見られる旧本庁舎歴史展示スペースがありました。

往時を偲ばせる丸太の基礎杭が復元されています。

旧本庁舎の棟札

ここでタイムリミットとなりましたが、他にも旧本庁舎創建当時の市長室を復元した旧市長室、屋上庭園などもあるようです。


川崎市まちの樹50選・専修大学前「エンジュ」

川崎市まちの樹50選・指定番号35

多摩区枡形・生田緑地エンジュ(槐)

生田緑地の西側に隣接する専修大学前バス停ロータリーのシンボルツリーとなっているエンジュです。

エンジュはマメ科の高木の広葉樹で、 夏場に葉を茂らせる事から木陰を作る緑陰樹として植えられる事が多いようです。

白と黒褐色の重厚な材は「延寿(エンジュ)」として縁起の良い木とされ、住宅の床柱の材料としても人気があるようです。



川崎市まちの樹50選・東光院「イトヒバ」

川崎市まちの樹50選・指定番号46

麻生区岡上・東光院の糸桧葉(イトヒバ)

「光る丘」に始まった、岡上の古刹

川崎市麻生区岡上にある、岡上山東光院宝積寺(おかのぼりさんとうこういんほうしゃくじ)。

創建年代ははっきりしていませんが、江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』には、天正年間(1573~1592年)までに開山・開基から数えて十一代に及んでいたと記されています。

その歴史の古さを物語るように、この寺には興味深い縁起が伝えられています。

光る丘で見つかった毘沙門天

伝承によれば、かつて行基菩薩が関東へ下った際、鶴見川の川岸から不思議な光が見えたといいます。

その光を目指していかだを降り、丘へ上がった行基は、光っている丘の北側を掘りました。

すると、そこから姿を現したのが毘沙門天像。

行基はその毘沙門天を祀るために草庵を結び、これが東光院の始まりになったと伝えられています。

東光院を訪れたなら、ぜひ知っておきたいのが寺宝の木造兜跋毘沙門天立像(もくぞう とばつびしゃもんてんりゅうぞう)です。

兜跋毘沙門天は、通常の毘沙門天とは異なり、地天(ちてん)の両手の上に立つ姿で表される、特徴的な毘沙門天です。

「光る丘」にまつわるこの伝承は、現在の寺名「東光院」の由来を思わせる、印象的な物語です。


川崎市まちの樹50選・東光院「イチョウ」

川崎市まちの樹50選・指定番号47

麻生区岡上・東光院の公孫樹(イチョウ)

豊かな木々に包まれた境内

その中でも、イトヒバ、イチョウ、カキノキの三本は、川崎市選定の「まちの樹50選」に選ばれています。

長い歴史を持つ寺院では、建物だけでなく、そこに根を張る木々もまた、境内の記憶を受け継ぐ存在です。

季節ごとに姿を変える木々を眺めながら境内を歩けば、古い仏像や板碑とともに、この場所で積み重ねられてきた時間を感じることができます。

川辺で見つけられたという「光る丘」と、そこから現れた毘沙門天。

そんな物語が長い年月を越えて語り継がれていること自体が、この土地に刻まれた歴史の一つなのかもしれません。

岡上の静かな丘に佇む東光院。

その境内に立つ古木を見上げながら歩けば、遠い昔、この地に草庵が結ばれた頃の風景に、少しだけ思いを馳せることができます。