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川崎市まちの樹50選・光明寺クスノキ

川崎市まちの樹50選・指定番号9

高津区二子・光明寺の楠(クスノキ)


浄土真宗・光明寺

光明寺の歴史は、甲斐武田氏の家臣だった小山田宗光に始まります。

武田氏滅亡後の1601年(慶長6年)、出家して「宗専」と名乗った宗光は、現在の二子塚公園付近に寺を開きました。

当時この地には「七軒百姓」と呼ばれる農民たちが暮らしていたと伝えられています。

1641年(寛永18年)には、光明寺も七軒百姓とともに現在の場所へ移転。

寺の前を通る矢倉沢往還(大山街道)は、人や物資が行き交う重要な街道でした。

かって本堂には「二子学舎」が置かれていて、この地域の近代小学教育の礎※となりました。※現在における小学校の前身にあたります。

光明寺の境内にある大貫家の墓地には、明治から大正にかけて活躍した文学者、大貫雪之助(晶川)の墓碑が残されています。

雪之助は1887年(明治20年)、現在の川崎市高津区二子にあった大貫家に、寅吉の次男として生まれました。

文学の才能は早くから認められ、第一高等学校在学中には、歌人・与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻が主宰した「新詩社」に参加。

その後、東京帝国大学英文科へ進むと、谷崎潤一郎、和辻哲郎、木村荘太、後藤末雄らとともに、第二次「新思潮」の同人として活動しました。

若き文学者たちが新しい文学を模索する時代にあって、雪之助もその才能を大いに期待されていたといいます。

また、妹は後に歌人・作家として知られる岡本かの子。

兄妹そろって文学の道を歩み、二子の地から東京の文壇へとその世界を広げていきました。

光明寺を訪れた際には、寺の歴史だけでなく、二子から文学の世界へ羽ばたいた若き才能の足跡にも、ぜひ目を向けてみたいところです。


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川崎市まちの樹50選・ 梶ヶ谷神明社「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号13

高津区梶ヶ谷・梶ヶ谷神明社の欅(ケヤキ)

梶ヶ谷の歴史を見守る鎮守

川崎市高津区梶ヶ谷に鎮座する梶ケ谷神明社。

その創建は、江戸時代の元禄年間以降と伝えられています。

長い歴史を持つこの神社は、明治時代に大きな転機を迎えます。

もともと梶ケ谷村の鎮守として人々の信仰を集めていた子之神社を合祀し、その後、村社となりました。

御祭神は、太陽を象徴する神として知られる大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)、すなわち天照大神。

江戸から明治、そして現代へ

梶ヶ谷の町が大きく姿を変えていくなかで、地域の人々の暮らしを静かに見守り続けてきた神明社。

住宅地の中に残るその佇まいからは、かつての梶ヶ谷村の風景と、そこに暮らした人々の信仰を感じることができます。

時代が変わっても、地域の記憶を受け継ぐ鎮守の杜。

梶ケ谷神明社は、梶ヶ谷の歴史を訪ねる散歩の途中に、そっと立ち寄りたい一社です。


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川崎市まちの樹50選・ 小台「イロハカエデ」

川崎市まちの樹50選・指定番号19

宮前区小台・伊呂波楓(イロハカエデ)

宮前平駅前を通る尻手黒川道路から、ほんの一歩奥へ入ると、そこには風情あふれる竹林が広がっています。

車や人の行き交う街の喧騒から少し離れるだけで、空気がふっと静かになり、まるでこの一帯だけ時間がゆっくりと流れているような、そんな錯覚を覚えます。

竹の葉を揺らす風の音に耳を澄ませながら歩けば、都会の中にいることを忘れてしまいそうです。

そして秋になると、この場所をひときわ美しく彩るのが、見事な紅葉を見せるイロハカエデ。

鮮やかに色づいた葉は竹林の緑と美しいコントラストを描き、道行く人の目を楽しませてくれます。

駅のすぐ近くにありながら、昔ながらの自然の面影を感じさせてくれる都会のオアシスです。

季節の移ろいを身近に感じながら、ほんの少し足を止めてみたくなる、そんな静かな風景がここには残されています。


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川崎市まちの樹50選・平1丁目「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号22

宮前区平・平1丁目の欅(ケヤキ)

坂道が多いのに「平」とは

多摩丘陵に建ち並ぶマンション群を背景に、平一丁目交差点を見下ろす小高い場所にこの欅は立っています。

近くを流れる平瀬川から少し離れると坂道が続く、そんな宮前区平の地名には、古くこの地を領した「葛山平殿」という人物に由来するという説があります。

川崎市のウェブサイトに、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に「平」の名が記されているとありました。

一方で、「平(たいら)」は、なだらかな傾斜地を表す言葉でもあり、丘陵と平瀬川がつくる穏やかな地形から名付けられたという説もあります。

個人的には丘と坂、そして平瀬川が織りなす平の風景を眺めると、土地の姿そのものが「平」という地名につながったように思っています。


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川崎市まちの樹50選・有馬4丁目「ケヤキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号23

宮前区有馬・有馬4丁目の欅(ケヤキ)

有馬の緑に佇む、一本の欅

有馬地区には、今も公園や畑などの緑が残り、住宅地の中にも、どこか昔ながらの風景を感じることができます。

その一角に、悠然と立っている一本の欅があります。

民家の庭先に根を下ろし、長い年月を過ごしてきたと思われるその姿は、周囲の住宅とは対照的に、どこか堂々とした存在感を漂わせています。

すぐ隣には、メタセコイヤの大木がシンボルになっている「有馬中央公園」。

少し足を延ばせば、樫の大木をシンボルとする「有馬かしの木公園」もあります。


こうして見てみると、有馬にはそれぞれの場所で地域の風景をつくってきた、大きな木が残されています。

しかし、民家の庭先という暮らしのすぐそばで、これほど堂々とした姿を保っていることに、この木ならではの存在感があります。

太い幹から伸びる枝は大きく空へ広がり、住宅が並ぶ街並みの中で、まるでそこだけ時間の流れが違うかのよう。

長い年月を重ねてきた欅だからこそ生まれる、幹の力強さ、枝ぶりの雄大さ。そして、何気ない住宅地の風景を一変させるほどの迫力があります。

公園のシンボルとはまた違う、生活の風景に根を下ろした大樹です。

道を歩いていてふと目に入ったとき、その大きさに思わず足を止めてしまう。

そんな「街の中の巨木」として、この欅は今日も有馬の風景を形づくっています。


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川崎市まちの樹50選・御杓文字橋「栴檀」

川崎市まちの樹50選・指定番号37

多摩区西生田・御杓文字橋の栴檀(センダン)

小田急線・読売ランド前駅の北口から津久井道を西へ進むこと約200メートル。

街の喧騒から少し離れた場所に、五反田川を渡る小さな橋があります。

その名は、「御杓文字橋(おしゃもじばし)」

橋のたもとに目を向けると、川辺の風景に溶け込むように一本の大きな栴檀(センダン)が立っています。

この栴檀は、植えられた庭木ではなく、橋のたもとに自生したもの。

春から初夏にかけて淡い紫色の小さな花を咲かせ、夏には緑の葉を茂らせます。

そして秋になると葉を落とし、黄色い実を枝いっぱいにつける姿も印象的です。

川辺にひっそり佇む、御杓文字橋の栴檀

駅からわずか数分。

車や人が行き交う津久井道のすぐそばにありながら、五反田川の流れとともに静かに季節を重ねています。

何気なく通り過ぎてしまいそうな小さな橋と一本の木。

けれど、足を止めて見上げてみれば、そこには地域の風景を長い年月にわたって見守ってきた一本の栴檀の物語があります。

読売ランド前駅周辺を散策する際には、御杓文字橋まで少し足を延ばしてみるのもおすすめです。

川のせせらぎに耳を傾けながら、橋のたもとに佇む栴檀を眺める――。

そんな小さな発見が、いつもの街歩きを少しだけ特別なものにしてくれます。


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川崎市まちの樹50選・汁守神社「ヤブツバキ」

川崎市まちの樹50選・指定番号50

麻生区黒川・汁守神社の藪椿(ヤブツバキ)

川崎市麻生区黒川の静かな一角に鎮座する、汁守神社(しるもりじんじゃ)。

広さ約6,133平方メートルにも及ぶ境内には、保存樹が生い茂り、川崎市の「まちの樹50選」に選ばれたやぶ椿も残されています。

御祭神は、食物を司る神とされる保食命(うけもちのみこと)と、国造りの神として知られる大己貴命(おおなむちのみこと)です。

「汁守」という、ちょっと珍しい名前

この神社を訪れてまず気になるのが、「汁守」という珍しい名前ではないでしょうか。

その由来は、遠く武蔵国の総社である大國魂神社につながっています。

かつて大國魂神社の例大祭「くらやみ祭」において、神様に供える食事「御饌(みけ)」のうち、汁物を奉納する役目を担っていたと伝えられています。

そこから「汁盛(しるもり)」、そして「汁盛明神」と呼ばれるようになり、現在の「汁守神社」という名につながったとされています。

かつて隣接する旧多摩郡真光寺村には、御饌のうち御飯を奉納していた飯守神社がありました。

汁を受け持つ「汁守」と、飯を受け持つ「飯守」。

両社はともに大國魂神社の例大祭で食事を奉納する「膳部(かしわでべ)」として、重要な役割を担っていたと考えられています。

境内に残る、江戸から明治の面影

創建年代は明らかになっていませんが、天明2年(1782年)には神像が造立され、社殿が再建されたと伝えられています。

正面の石段を上ると、境内には天保5年(1834年)建立の鳥居が迎えてくれます。

さらに現在の本殿と拝殿は、明治37年(1904年)から大正3年(1914年)にかけて、それぞれ独立した構造として新築されたもの。

また明治から大正にかけて、村内にあった八幡神社・八雲神社・日枝神社が合祀され、現在の「汁守神社」となりました。

境内の木々や古い鳥居を眺めながら歩けば、今からはるか昔、この地から武蔵国総社へと供物を届けた人々の姿まで、ふと想像したくなる神社です。


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川崎市まちの樹50選・ 長念寺「イチョウ」

川崎市まちの樹50選・指定番号27・28

多摩区登戸・長念寺の公孫樹(イチョウ)

川崎市多摩区にある永池山長念寺。

その始まりは、大永2年(1522)に法専坊がこの地に草庵を築いたことに始まると伝えられています。

もともとは真言宗の寺院で、山号も当時の年号にちなみ「大永山」と称していました。

その後、文禄元年(1592)に、近くにあった三日月湖にちなみ「永池山」へと改められたといいます。

長念寺の歴史を語るうえで欠かせないのが、秀月禅尼という女性です。

秀月禅尼は、徳川家光に仕えた菅の領主・中根壱岐守平十郎正朝の母。

長念寺を深く信仰し、その庇護によって寺は大きく発展していきました。

徳川家によって本願寺が東西に分立された際、長念寺はいったん東本願寺に属することになります。

慶安2年(1649)、秀月禅尼の一周忌には、子の正朝によって本堂や山門、庫裏などが寄進されたと伝えられています。

しかし、門徒たちの思いは少し違っていました。

かつて大坂冬の陣・夏の陣の際には、門徒衆が自らの意思で豊臣方に加勢したという伝承も残されています。

時代の大きな流れの中にあっても、門徒たちは自分たちの信仰や寺とのつながりを大切にしていたのでしょう。

そうした門徒衆の強い願いを受け、元禄14年(1701)には西本願寺へ帰参。

現在まで浄土真宗本願寺派の寺院として続いています。

本堂、山門、庫裏はいずれも川崎市重要歴史記念物に指定され、江戸時代の寺院建築と境内の姿を今に伝えています。

本堂は文政7年(1824)に上棟され、庫裏もほぼ同じ時期に再建されたと考えられています。

山門は嘉永7年(1854)に上棟。

木造阿弥陀如来立像を本尊とする本堂を中心に、山門、庫裏が整然と配置された境内は、近世寺院の雰囲気を今に残しています。

登戸の街が大きく姿を変えていくなか、江戸の面影を残す建物と境内。

その静かな佇まいは、500年近くにわたる地域の歴史を、今にそっと伝えています。